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   文化審議会は国際的視野をもって常用漢字を検討すべし

葛飾吟社 2005-1/29

 文化審議会国語分科会が二月開かれる審議会に報告書を提出すると新聞は報じている。その主柱は「敬語の指針」と「常用漢字の検討」にあるという。

 漢字については、パソコンのサポートが浸透して、教育課程における「漢字記憶」の負担が軽減した現在、「総合的な漢字政策の構築をめざしていく必要がある」ということらしい。「総合的」とは何を指すか不明だが、若者の外国語選択が、英語に次いで中国語となった現在、国際的視野を持って現実を見据えた政策を考えて貰いたい。

 現代世界の文字の中で、ABCのアルファベットと漢字が二大文字圏である。ロシア文字、アラビヤ文字人口はそれぞれ2,3憶であろう。インドはヒンドウー語やタミール語などそれぞれ字が異なる。インドネシア語は二十世紀にアルファベット表記になってしまった。残るは千万単位以下である。

 漢字文化圏も時代と共に漢字を離脱する国が続いた。ヴェトナムはフランス植民地時代に漢字を棄ててしまった。ホーチミン(胡志明)のように、曾つては漢詩を詠む人もいたのである。(現在でも架橋社会では漢詩を詠む人がいるが、その数は其れほど多くはないと聞き及ぶ)

 韓国は大統領がかわるたびに漢字を廃止したり復活したりしてきたが、遂にハングルのみとなり漢字文化圏から脱落した。

 かくして残された漢字文化圏は台湾を中国の一部と見れば、日本と中国だけになった。日本と中国の国民は少なくとも明治時代まで、言語は通じなくても詩文の交歓は自由に出来た。それは互いに共通の漢字を用いていたからである。

 第二次大戦後、この両国は漢字の簡素化という似た政策を採ってきた。しかしお互いに何の協議も連絡も無かった。それが今日両国字の相違を残し理解に弊害をもたらしていることは否定できない。

 日本の知識人がしばしば中国側の簡体字に拒否反応を示すことがある。これは実像に対する認識不足が原因している。

 多くの漢字愛好家(書道愛好家などに多い)がいうのは、「漢字は表意文字なのに簡体字はそれを破壊した」というものである。この『梨雲』が日本のJIS漢字で作られ、中国で読まれているように、詩文の交流などは、視覚ならばJIS漢字で問題はない。

 孫文の辛亥革命以来中華人民共和国に到る一貫した建国ポリシーは、人口の九割以上をしめる農民を中心として来た。当時識字率は二割程度しかなく、これを改善しない限り近代国家の建設は不可能であった。日本ならばまずイロハ文字を教えるべきところである。表音文字を持たない中国は、最低四百ほどの文字の簡体字を作って普及したのである。

 今では識字率は八割を超える。簡体字は歴史的使命は大方終わったといってもいい。新聞・雑誌を見ても、四百字以外は従来の漢字で埋められている。

 日本側の略字制定はこれに比べれば負担の少ない作業だった。だがそれでも知性を欠く扱いが目に付く。例えば藝を「芸」と略字化したが、この字が漢字にもともとあることを知らなかったらしい。

 芸は雲形の窓の意で、雲や云々と同様に「ウン」と発音する。著者は皮肉を込めて、芸大の生徒にはいつも「お前の学校はウンダイだ!」といってやることにしている。

 このように両国は互いに何の連絡も持たず漢字の略字制定をやって来た。文字のスタンダーダイゼイションを国際的に協議する必要性は極めて高く、往年の交遊関係を取り戻すための為政者の義務は大きい。

 そもそも戦後国語審議会は漢字を減らすことに、真剣に取り組んできた。文字変換技術の飛躍的進歩により、今日から見れば、全く馬鹿馬鹿しい課題だったこととなる。今後は国際共通化を新たな課題として貰いたい。

 中国も漢字の将来を見据える時期に逢着している。香港や台湾やシンガポール等の華僑社会では繁体字が用いられて来たからである。已に香港が併合され、台湾との統一問題も姦しい。繁体字を用いて来た地域とどう調整をするかは喫緊の課題である。

 すでに2000年北京で開催された短詩研討会の席上、中日友好協会副会長の林林先生が漢字問題に触れ、「ここにおられる林岫先生(中国書法家協会副会長)は漢字評議委員会の委員です」と語っていた。これはまさに簡体字と繁体字の調整を課題にすると思われる。

 残された漢字文化圏のパートナーである日本は、このような調整会議にオブザーバーとして参加させて貰い、さらに国際調整に参画することが望まれる。

 わが国政府は漢字問題を国内問題として議論するだけでなく、アンテナを漢字文化圏に張り巡らし、次なる国際調整の機会に乗り出して行く積極性を持って欲しい。

 視覚情報としての『梨雲』はパソコンで編集され日中両国で読まれていて、双方にさほどの障害はない。さらに、Digital技術の観点から看ても、Windowsの日本版と中国版の違いは有るものの、コード変換の作業をすれば、日本の漢字:中国での漢字:海外で用いられている繁体字などは、殆ど相互変換が出来るのである。依ってコードの違いは、技術的にはさほどの、障害とは成らない。唯此は情報処理技術を持っている者に謂えることで、多くの文化系の人にとっては、この技術的なことが障害となりうる。

 端的に言えば、視覚情報として看るならば、中文で書かれた文字を、日本版WindowsでのJIS漢字に目視で置き換え、Digital情報として再搭載できない文字は、殆ど無いが、情報処理技術の乏しい者にとつては、視覚に頼るしか方途が無く、此が歯がゆい限りである。

(文責・今田 述)

 

 


   漢俳学会の設立の意味
                    今田 述

一、漢俳学会独立の意味を考える

 中国人民対外友好協会は、来る三月二十三日中国の正式な国家機関として、漢俳学会が発足することを報じ、俳句四団体や葛飾吟社の代表者を招待することを伝えて来た。学会の名誉会長には林林先生(中日友好協会副会長)、会長には劉徳有先生(中国対外文化交流協会副会長)が就任する。

 漢俳は五・七・五の十七字で綴る三行詩であり、何百とある中国の詩詞の一形式である。詩は五言や七言の絶句や律詩のごとく同じ長さの句を連ねて詠む古典詩の形式である。詞は数百もあるといわれる詞牌に嵌めて詠むので填詞ともいわれる古典詞の形式である。前者は唐代に後者は宋代に完成を見たので、世に唐詩・宋詞といわれる。

  漢俳を短い詞の一種と見ることも出来る。しかし林岫女史は五言絶句の一句を削り、中央句を七字に仕立てて、そのプロセスを披露してみせた。いずれにせよ詩と詞は中国国民詩の両輪であり、これを支援普及するため文革後の七十年代末に中華詩詞学会が設立された。これに対しこの度漢俳学会が新に設立されることになったが、漢俳学会を独立させる意味は何処にあるのだろか。

 

二、俳句との関係

 漢俳の誕生は一九八〇年である。日本の俳句訪中団(団長大野林火)を迎えた歓迎会席上、故趙樸初翁によって詠まれた次の一首に始まったことは知られている。

 緑陰今雨来。      緑陰 今雨来る,
 山花枝接海花開,   山花の枝 海花に接して開く,
 和風起漢俳。      和風 漢俳を起す。 (趙樸初)

 それから四半世紀が過ぎた。十年ほど前から中華詩詞学会とは別に漢俳学会を設立しようという動きがあった。二十世紀末相次いで亡くなられた趙樸初、李芒両先生、それに今回領導を勤められる林林先生はじめ諸先生方の熱心なご尽力の結果、新学会は誕生することになったのである。

 

三、日本俳壇の対応

 一九八〇年の俳句代表団訪中以降、日本俳壇の中国詩壇訪問が盛んになった。九〇年代に入ると、漢俳と俳句を共載するアンソロジー発行が目立つようになる。最も代表的なのは現代俳句協会が一九九三年、一九九七年の二回にわたって刊行した『現代俳句漢俳作品選集』であろう。これを見ると俳句は李芒先生らが漢訳しているが、形式は漢俳にとらわれていない。

 漢俳形式はむしろ例外的である。逆に漢俳の日訳は無理矢理俳句にしているため必ずしも原詩の意を伝えていない。漢俳と俳句の情報量は異なり漢俳=俳句という方程式には無理がある。この間の中国詩壇と日本の俳壇を見ると、中国人が俳句を詠むケースはあるが、俳人が漢俳を詠むケースは現れなかった。このような中途半端な交流は次第に飽きられたのか、最近は交流がやや下火になった感があった。むしろ漢俳の存在を短詩として捉えた葛飾吟社のような漢詩詞結社が漢俳を詠むようになっていった。

 

四、漢俳と俳句の共通点

 多くの俳人は「漢俳は情報量が多いから俳句と似ていない」として興味を示さない。漢俳に対する正しい認識が欠けていたように思われる。漢俳は俳句でないとしたら、類似点は何処にあるのであろうか?情報量からいえば、漢字十七字は俳句を遙かに越え、むしろ短歌に近い。実は俳句は十七文字ではなく十七音節なのである。

 そして漢俳も又北京語でこれを朗読する限り十七音節である。つまり俳句と漢俳が共通するのはリズムであって意味ではない。漢俳は「俳句と同じリズム、短歌に近い情報量」を持つ短詩といっていい。子規のように短歌も俳句も漢詩も書いた人なら、この性格にすぐ気づいた筈である。今日の日本の短詩界は極端に分業が進みすぎて、大きな視野で漢俳を短詩としての捉えることが出来なくなってしまっている。

 

五、文芸史上から見た漢俳

 古代日本人は文字を持たなかった。最初に接した文字が漢字であった。日本人は漢字を輸入して日本語の記録に応用した。爾来日本の詩歌文芸は千数百年にわたり常に中国古典詩詞を師と仰いで来た。現存する日本最古の詩集は『懐風藻』であって、『万葉集』より二十年ほど前に編纂されたと考えられている。

 これが後の民族歌集『万葉集』の編纂に大きなインパクトを与えたことは疑う余地がない。和歌の最初の勅撰集『古今和歌集』には真名序と仮名序がある。仮名序は漢文の真名序の詩論に追随して書かれている。江戸時代に入ると庶民の詩歌文芸として俳諧を確立した。その完成者は芭蕉であるが、彼もまた唐宋の詩文を深く研究・洞察してこれを俳諧の元肥とした。両国の長い文芸交流史の中で、中国は常に師であり、日本の文芸が中国に影響したのは漢俳が最初のケースである。

 

六、現代にマッチする詩形は何か

 文革後の中国詩壇は新時代に相応しい詩詞を模索していた。或る意味で日本が西欧思潮を取り入れた明治二十年代頃に似ているかも知れない。日本では上田敏らがカナ混じり文で欧米詩を翻訳し、ついでカナ混じり文で詩が書かれるようになった。島崎藤村の『若菜集』が世に出たのは明治40年(1907年)のことである。そしてこれを「詩」と呼び、従来の漢字で書いていた「詩」を「漢詩」と呼ぶようになった。

 中国で現代文芸思潮が発達したのは、魯迅らが活動した五四運動(1919年)前後からである。日本のカナのような表音文字を持たない中国語は、現代の感情表現に相応しいモードを詩形を求めるしかない。日本の明治時代以前に俳句が国民短詩として詠まれていたことは、日本に関わりを持った中国短詩人の関心を惹いた。

 来日して直接子規に師事した蘇山人以来、俳句の研究は営々と続けられて来た。日中戦争の間にも葛祖蘭のごとく実作や研究を続けた俳人がいたことは驚異に値する。趙樸初翁が即興で漢俳を詠んだのは、実は決して偶然ではなかった。長い研究の過程があったのである。

 漢俳は最近の十年ほどの実験段階を経て、現代中国の国民短詩として確信が持たれるようになった。形態は伝統詩の系譜から見ても定着し易く、多様化する現代的センスにもマッチすることが体験から実証されたといえよう。

 

七、漢俳は発展するか

 今後、漢俳に期待する要素が二つ考えられる。その第一は中国の中での普及である。漢俳は古典詩に較べて平仄や捻体といった制約は少ない。古典詩が詠めない人でも容易に作れる。二十世紀の大詩人の一人である毛沢東は、かねがね古典詩は人民には難しすぎると語っていたという。漢俳が誕生したのを機に、これを日本の俳句のような国民文芸として定着させたいというのが漢俳学会設立に到った最大の目的であろう。

 第二は漢字文化圏との国際交流である。ベトナムや韓国が漢字を喪失してしまった今日、残された漢字文化圏は日本ということになる。何といっても日本には一千万といわれる俳句人口がある。ここに交流の大きな期待が持たれる。

 数の上で最も多く日本人が中国人と詩の交流を行ったのは明治時代である。大正時代日本人の漢詩文能力が急低下したのと、日本の大陸侵攻が進んだのとは時代がほぼ一致する。こういう歴史認識から、もう一度明治の文化交流時代を回復したいという願いは強い。折しも日本の若者の外国語選択は英語に次いで中国語という時代になり、中国へ留学する日本人学生も急増している。次世代の両国文化交流に漢俳が果たす役割は非常に大きいと思われるのである。