漢詩詞創作講座初心者02 文化交流漢詩詞結社葛飾吟社 TopPage

第2講 「漢詩」という語は明治までは無かった。

 第一講の最初に「漢字で詩を作っている」と書きました。私は「漢詩を作る」ということに少々抵抗があるのです。なぜかというと「漢詩」という言葉の概念がハッキリしないからです。日本人は「漢詩」というと通常七言絶句を連想します。これは中国の格律詩の一つです。格律詩というのは、詩形がキチンと決まっている定型詩のことです。中国には自由詩もありますが、こちらは中国人でなければ作れないといえましょう。

 格律詩のことを中国では「漢詩」とはいいません。これに相当する言葉は「詩詞」であります。「漢詩」という言葉はあるにはありますが、通常「漢代の詩」を意味します。格律詩の形式が完成したのは唐の時代(西暦618-907)です。しかしそこに到るまでに長い歴史がありました。中国を最初に統一(紀元前221)したのはご存じ秦の始皇帝です。始皇帝は文化の面では焚書坑儒で大量の書籍を焼き払い評判が悪いのですが、同文同軌の制定は大きな功績というべきでしょう。同文というのは文字の統一、同軌というのは道路の幅員の統一です。始皇帝が死ぬと秦はすぐ滅亡します。そのあと劉邦によって築かれた漢王朝は、前漢、後漢を合わせると四百年もの長い時代を持ちました。この時代に中国の文化の基礎が確立され文章が発達しました。史書として名高い『史記』が司馬遷によって書かれたのも紀元前百年前後のことです。文章は漢代に発達したから漢文といわれます。詩が発達するのは、先に述べた通り唐代ですから「漢文唐詩」といわれます。

 日本でも明治時代までは「漢詩」といいませんでした。単に「詩」といっていました。日本人が「漢詩」という言葉を作ったのは、恐らく大正の始め頃だろうと思われます。今、私の手元には明治の最後の年に発行された雑誌『随鴎集』86篇があります。この雑誌は伊藤博文のアシスタント森槐南が主宰する当時最大の詩の結社だった随鴎吟社の機関誌です。そのどこを見ても、漢詩という語は見当たりません。最後の方に森槐南著の『作詩法講話』の広告も載っています。今日だったら『漢詩の作り方』といったところでしょうか。

 明治政府は西欧の文明文化への追随に血道をあげました。やがて大正になると東洋文化は急速に衰退しました。文豪夏目漱石や森鴎外はいずれも英国やドイツに留学して西欧文化を導入しましたが、文学の基礎は東洋文化にありました。漱石などという名前からして中国の故事から採っています。漱石が死んだのは大正五年ですが翌大正六年に日本の一流新聞から「詩欄」が姿を消しました。明治時代、全国新聞の「詩欄」が果たした役割は大きいものがありました。今日の短歌欄や俳句欄は、その真似から出発したものです。

 明治中期、上田敏らが西欧の詩の翻訳を発表し、これが欧化の風潮に歓迎され、明治三十年代になると蒲原有明や島崎藤村によって七五調の漢字かな混じり文で詠む新体詩が流行するようになりました。やがてこれらを「詩」と称するようになり、漢字で詠む詩に「漢詩」と言う名を付けたと思われます。「文が漢文だから詩は漢詩でいいだろう」という当時の安易な命名がその始まりだったと思われます。

 わが国の現存最古の詩集は『懐風藻』です。『万葉集』よりも20年ほど前に上梓されました。以来明治まで千二百年近く、ずっと「詩」だったものが「漢詩」という何とも奇妙な名称を与えられたことには、いささか抵抗を感じないわけに行きません。