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話題17 | ■萬緑叢中紅一点 中山逍雀 2007/1/14(日)06:39返事 / 削除

萬緑叢中紅一点
 私は俳句に疎いが、萬緑と言う季語があって、中村草田男と謂う人が使ったという話を聞いたことがある。宋代の詩人王安石の《石榴詩》が萬緑の典拠だそうだ。
 石榴の詩には、萬緑叢中紅一点,動人春色不須多。の句が有る。私はこの句にある種の齟齬を感じていた。春色とは春景色を指すのだろうが、私は農家の生まれだから常識的なことだが、中國ならいざ知らず日本では、石榴は栗の花よりも遅い、初夏の花なのだ。
 いま丁度窓の外に石榴の花が見えるが、千葉県北部では五月には咲かない。六月初旬に一二輪の赤い花が開き、今日は六割程開花している状態だ。千葉県北部の六月十七日では、萬緑叢中紅幾点と言う状態である。
 俳句には歳時記という書籍があるそうだが、未だ見てはいないが、萬緑は六月初旬を指していると思う。夾竹桃は初夏から夏にかけて咲くが、今は丁度石榴と夾竹桃が重なり合っている。

( 農家のじじい / )


投稿7 | ■俳句関連の参加がないのは寂しい 中山逍雀 2007/1/14(日)07:06返事 / 削除

 大分日が過ぎたが一向に俳句関係者の書き込みがないのは寂しい限りです。大いに詩論を吐露して頂きたいのだが。

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投稿6 | ■詩の中の神話(その2) 王軍合 2007/1/14(日)06:54返事 / 削除

 石倉先生: 
 
 ご高覧を頂きありがとうございます。 
 一つ、お願いがあります。つまり「先生」なんてとてもじゃないけど、・・・これから
名前直呼でいいです。或いは、王さんって如何でしょうか。石倉さんや中山先生の前でそう呼ばれると、地に穴があれば、直入したい気分になってしまいます。

 このテーマを出すのは、自分の勉強とも関係があるからで、また詩歌の創作において、どうも我々が言葉に捕らわれている感がします。そうです、詩が言葉の芸術とも言われるから、無理もない。だが、我々の言葉は二つのレベルにおいて維持されています。一つは日常的な次元、もう一つが芸術の次元、言わば詩の次元。おそらく詩の中においても、詩語をばかり集めても、それはやはり一首の詩になりえない。だから言葉に捕らわれなくて、もう一つ何かが必要でしょう。私はその成分を神話に求めています。では、神話の要素を詩歌に織り込めば、乃至神話の素材を読めば、その両者の関係を結びつけるのだろうか。答えはノーだ。
 ここにいう神話とは、二次的神話。言い方を変えて、昔の神話伝説というのではなく、「文学神話」と言いましょう。つまり生の神話ではなく、貴方個人に刺激を与え、貴方の想像力に刺激を送り続ける神話のことです。同時にそれは只の空想でもなく、皆が体得できる、感動を覚える其の神話のことです。「秋の夕暮れ」と言って寂しい思いをするのは、単なる言葉の力ではなく、神話が作用するからです。西洋の方は、それを読んで少しも寂しくない。虫の音、うるさいなあー。美的情緒、冗談も休め。つまり彼らはその後ろの背景が分からないからです。別に無見識でもなんでもない。だが、我々は、「秋の夕暮れ」といったらそれはもう・・・。
 言葉の表面を読むのだけでは、詩が成り立たない。その悠久な背景を、文化コンテクストに見つけ、感動を覚えるとき、詩が始めて誕生する。その悠久な時間、背景を我々に暮れたのは神話です。創作においてもそれが必要ではないかと、私は思うわけ。

 今度一、二例を出して、それをみてみましょう。

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投稿5 | ■詩の中の神話 石倉鮟 2007/1/14(日)06:53返事 / 削除

王軍合先生

 こんばんは。鮟鱇です。示唆に富んだ玉稿拝読させていただきました。神話と詩の関係、詩の全てが神話的であるとはいえないまでも、詩と神話がとても密接な関係にあることは、たとえば、歴史と神話とどちらがより詩に近いかということを思うだけでもよくわかることと愚考します。
 歴史で使われる言葉よりも神話で使われる言葉により詩的余韻が多く、あえて言えば、孔子よりも老子・荘子の文がより詩的響きに富んでいるように思えるのも、詩と神話の関係を考察なされた先生の指摘に触発された愚考です。もちろん孔子の言葉だって、現代人の説明的で解説的な言葉よりもはるかに詩的含蓄に富んではいますが。。。先生のおっしゃるとおり、現代人の脳髄はいかにも歴史的なものばかりに気をとられ、神話の言葉の富に疎くなってしまっています。
 現代人が神話が孕む詩的富にきわめて鈍感であることが詩的感受性の衰退につながっているらしいと思われる点、小生同感です。

 ところで小生、もちろん小生なりにではありますが、神話を意識して詩をいくつか書いた経験があります。

白水素女

作詩一首贈黄炯韜先生之電網主頁

天公憐憫謝端淳    天帝、謝端の純朴なるを憐れに思い??
下命銀河素女贇    銀河の美しき素女に命ず??
小姐化螺潜水底    郎女は貝に化して水底に潜り??
漁夫収此復湖濱    漁夫はこれを収めて湖畔に戻る??
秘蔵瓶裡称珍貴    瓶の中に秘蔵してその珍しきを称え??
縦適夢中遇麗人    放縦な夢の中で麗人に遇う??
賞貝古来通幸運    貝を賞賛するは古来幸運に通じるも??
求婚無定到佳音    求婚のよき知らせに到るは常ならず??
星精凄切談思想    星の精は切々と本心を談じ??
告別乗雲帰北辰    別れを告げて雲に乗って北極に帰る??
誠摯早餐残矮屋    まごころの朝飯、矮屋に残り??
生涯懐旧保孤身    生涯の懐旧、孤身を保つ

七絶:賞貝聴天声

銀河瀧落至東瀛    銀河の滝落ちて東の海に至り??
星滴清輝贇貝生    星の滴は清らかに輝いて美しい貝を生ず??
集螺賞奇聴海韻    貝を熱めその珍しさに賞嘆すれば海の韻律が聞こえ??
無為文飾語天声    無為自然の模様は天の声を語る

七絶:幽魂飛

目下雁群共往飛    眼下に雁群、とのに往きて飛ぶ??
山河縹渺日熹微    山河は縹渺として日、熹微す??
不知彼岸同春景    彼岸の春景の (この世と) 同じたるを知らず??
一路無言望適帰    一路無言にして、適帰を望む

七絶:仙人球

仙人球裡有桃源    サボテンのなかには桃源があり??
矮女安詳眠緑園    小さな女がのんびり緑園に眠っている??
毎旦喃喃聴耳語    毎朝耳もとでささやけば??
明年学会弄花言    来年には花言を弄することを会得するだろう??

七絶:渓流対酌

喬松対酌万年山    喬松対酌す、万年山??
渓水喃喃過等閑    渓流、喃喃と等閑に過ぐ??
雲客飄飄遊四季    雲客、飄飄と四季を談じ??
醒開酣落雪花間    覚めれば開き、酔えば落ちる雪と花の間

 この詩、「喬松」は高い松の意とふたりの仙人を意味しますが、さる漢詩の大家からはわたしが漢詩の何たるかを理解するまでにはまだまだ時間がかかる、という評価を得ました。

七絶・庚申偶作

髑髏頭頂芳花發,仙女胯間飛蝶迷。
深醉老殘貪梦處,三尸驚訝出臍躋。

(訳)
  髑髏(ドクロ)の頭頂に芳花 発(ひら)き,
  仙女の胯間(コカン)に飛蝶 迷う。
  深醉して老残 夢をむさぼるところ,
  三尸 驚訝して臍(へそ)を出でて躋(のぼ)る。

(語釈)
  三尸:道家で人の腹中にすむという三匹の虫。庚申の日に腹中から出てきて、その人の秘密を天帝に告げるという。(漢字源)
  驚訝:あきれる
(解説)
  作者のねらいとしては、エロスとタナトスを食材にブラックユーモアのソースで煮込んだつもり。
  2002年の年頭から2127首目の詩です。乱作の結果、少し鬼気が眼に見えるようになってきたように思うのですが、さて、いかがなものか。

 これらの詩、いずれも小生なりに神話を意識しながら書いたものです。先生のおっしゃる神話と小生が思う神話、必ずしも同じではないかも知れません。というより、小生の詩が、十分に「神話的」でないかもしれません。とりわけ冒頭の「白水素女」は、「神話」を「歴史」のように書いてしまっているかも知れません。
 ただ、詩と神話がきわめて近い関係にあり、また、
王先生>詩を個人的趣味の域から脱出させ、時代の制限を超えて、国家の文化領域をこえて、もう一つ高次元に詩を高める方法として、神話の詩的機能に思いを致すべきかと小生も思いますので、ご指正を賜ればと投稿させていただきます。旅に出て目に映り耳に聞こえたことを詩にしたためる、つまりは個人の歴史の1ページを書くことになります。そういう詩が、個人的趣味の域からなかなか抜け切れないものであることは小生も承知しています。しかし、神話を書く、これもまたなかなかむずかしいですね。

http://www.h2.dion.ne.jp/~ankou/

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投稿4 | ■詩の中の神話 王軍合 2007/1/14(日)06:45返事 / 削除

 私はあまり詩を書きませんが、中国の古典詩歌、日本の中世和歌が大好きで、多少詠んでいます。この場を借りて少々浅薄な感想を話します。
 現代、詩を書くこと自体、貴重な経験だと思います。詩の存在に厳しい時代と言えましょう。辛うじて詩を書く人人がその命脈を保ってきたと言っても過言ではない。俳句人口、短歌人口云々、果たしてどのぐらいの人がそれを「詩」として書いているのだろうか?残念ながら本来はそれは「詩」であったが。
 近代、神話が失われ、詩想の本拠地が人人の心から奪われてから、詩も半分枯れてしまいました。神話が一度退けられ、詩も死滅の運命に見舞われた経緯がありました。日本の和歌は、和歌とは言わず、短歌に。中国の古典詩歌も(普通にいう漢詩)、現代詩に変わられ、平仄は勿論、韻さえも判らない人が多くいました。ましてその中に保存された神話、かけらも見つからない状態です。
 言うには易しいが、どのように詩の中の神話を回復できるのだろうか。詩作の過程に神話の作用という物をどのように認知されるのだろうか。詩というものは単に書き出した物だろうか。いや、古詩、古歌を読めば多少判るだろう。私のいう神話の作用を。さもなければ、詩は永遠に人間の、特に近代的な人間の次元に止まる。言い換えれば詩は、かつて神話の美を体得できず、その伝統に回路に組み込めない。
 高踏的な純理論を押し付ける、そういうつもりはない。詩作の人だけにそのチャンスが、神話との出会いのチャンスが残されていると思います。創作さえもしない人には、おそらく紙上の空論に終わる。詩の中の神話、白居易、李商隠、元槙、許郡暉の詩を読めば、出会いが早い。李白もロマン主義派の詩人と言われますが、一味が違うかな?おそらく藤原定家たちのような歌人もそのようにして白居易の詩歌から神話を見つけたと思います。現実主義派の詩人、杜甫の場合、神話の要素が希薄。
 是非神話の中の詩、詩の中の神話を嗅ぎ取るべき、詩を個人的趣味の域から脱出させ、時代の制限を超えて、国家の文化領域をこえて、もう一つ高次元の物に仕上げていただきたい。

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投稿3 | ■王 安石の詩歌について 王軍合 2007/1/14(日)06:44返事 / 削除

 王 安石と蘇 東陂の菊の詩について、出典は元の時代、小説『驚世通言』第三話にある。
 王詩の前二句は、「西風昨夜過園林、吹落黄花満地金。」未完成の詩だが、訪ねてきた蘇東陂は、それをみて、多分菊の花は、風に吹かれそのまま、落ちないだろうと、一般的に菊の花は枯れるにつれ、固まって、そのまま残るだろうと推測したのだろう。普通の詩句「抱香死枝頭」というのがそれで、つまり通念に基づいての推測か。そして、蘇は、次の三、四句を付加えた。「秋花不比春花落、説与詩人仔細吟」。つまり春の花は落ちるけど、秋の花は、どうかな?よく吟味してみたら?

 王の意図にあったのは黄州府にあった菊の花、落ちると言われる。

 この記事はどの程度の信憑性があるのか、よく分からないが(小説だから、作り話の可能性も)蘇の言文にも登ったらしく、何らかの根拠があったろう。

 あと、孔紹、梁の元帝の石榴詩は、『初学記』、『芸文類しゅ』の両方にあるので、間違いなしです。

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投稿2 | ■石榴の話題について 中山逍雀 2007/1/14(日)06:43返事 / 削除

王 軍合さん 貴重な情報提供眞に有り難う御座いました。
 漢詩詞の方は大分検証されたようです。
 さて、「俳句」の方はどうなんでしょうか?
 もと技術屋は検証しないと気が済まない質なのです。どうせ趣味で、どおって事のない問題だと、ひとには謂われますが、かといって感性だとか雰囲気だとかで、お茶を濁されるのは、余り好きではありません。
 俳句の立場では、どんな検証結果を基にして、季語として使っているのか、お教え頂ければ有り難いのですが!
 俳句関係者のご高説をお待ちしています。

( もとは技術や / )


投稿1 | ■石榴の話題について 王軍合 2007/1/14(日)06:41返事 / 削除

 仰る通り、ロジカルに考えると、解釈しにくいところがあります。王 安石の詩作よりかなり前の時代、孔紹と(西晋、5世紀?)いう人がすでに『咏石榴詩』があり、その中で石榴を春の風物ではなく、初夏のものとして詠んでいた。原詩は

 可惜庭中樹、移根逐漢臣;只謂来時晩、開花不及春。

 更にこの人の前、梁孝元帝の『賦得石榴詩』があり、そこでは、暮春という時期を示している。原詩句は「塗林未応発、春暮転相催・・・」。

 只、昔は陰暦、春暮といったら、三月末から四月の末までもその範囲に入れられるから、現在の五月、六月になる可能性は、ないこともない。それに南と北の地理的位置も多少開花時期に影響するから、結局はどうかな?

 王 安石という人は、なかなか真面目(精確)という面があったそうです。例えば、彼には菊についての詩があったようで、菊の花が落花するという旨。蘇東阪はその詩を見て、おかしいぞ?菊は落花するかよ、と。王安石を皮肉った詩を書いて、残して去った。
王が帰り、机の上にあった蘇の詩を見て、即座に一首をしたため、お前は、よく見なさい。その何処何処の庭に。菊の花も種類はいろいろ、確かめず、人を皮肉るのは、恥じになるぞと。蘇は最初、半信半疑、しかしある日、満庭の菊の花の落花を目にした。初めて納得した。これは蘇の詩話にもある記事、また「三言」『警世通言』の中か?、にも書いてある。
 この詩、万緑の場合は、どうかな。読みによっては、半可通かも。

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