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話題53 | ■中山栄造新短詩についてのニュース 王軍合 2007/1/14(日)12:27 返事 / 削除


第29回 国際日本文学研究集会

主催:人間文化研究機構 国文学研究資料館

とき: 平成17年11月17日(木)

ところ:国文学資料館(品川区豊町1−16−10)

発表者:沈 美雪(弘前大學地域社会研究科所属)

テーマ:中国語圏における俳句受容の現状と問題点

抜粋:台湾、中国大陸での俳句研究の現状を踏まえ、中国語俳句の種類と日本語訳を紹介された。この中で、漢俳、漢語俳句(湾俳、台湾俳句)、曄歌の三種類が紹介されていた。

 「中山栄造が提唱した詩形。『曄』とは、かがやくといった意味、『日』と『華』を組み合わせた字を用いたのは、日本人でも中国人でも出来る短詩となることを願うことでの命名。三四三の十字の定型詩。詩語・季語を用い、押韻する」

 詩例は今田 述氏の作品:秋風溢 魯迅棄医 旧教室



研究意義: 
 従来、アカデミズムの視線の外に置かれてきた中山新短詩がようやく、こうした世界的レベルの研究対象として取りあげたことの意味は大きい。

 これからいかなる視点の下で、定義されて、衆目の的になあるかは、楽しみでありましょう。


 葛飾吟社と皆様の作品が、多く取り上げられて、其れなりに相応しいアカデミズムの研究対象になりえたと言っても過言ではないと思います。

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投稿3 | ■逍雀詩評:周游四国八十八霊地 王軍合 2007/1/15(月)09:40 返事 / 削除

中山逍雀の漢詩鑑賞

  自古以來,詩友的詩作有好評的一面,更有難評的一面。愛屋及烏,喜愛其人,那麼詩友的詩,怎麼讀怎麼好,讀來順口,就容易説好聽的。説好聽的人也愛聽,好評。那麼難評的一面呢?好的就説好,不好的就説不好,這可就不容易了。更何況作評的人,能有多大客觀的理論批評能力?我遲遲沒有對中山逍雀先生的詩歌作評,就是因為我喜歡他的為人,還有我沒有客觀的評論依據。回想起來,我們交往已經十年了。

    中山逍雀,在中國比在日本有名氣。經常會有中國各個方面的詩歌團體雜誌介紹他,而在日本大概由於上一個世紀的li史遺留,日本的詩歌研究者不把一個普通的人的詩歌作品當回事。不過,所幸中國的詩人可以理解中山逍雀,這是最為難得的事。

    今天鑑賞幾首中山寫的古體詩。這是近幾年寫的。

周游四国八十八霊地

五言絶句
    
    老樹花空落,優游日正長。偸閑何事好,凭欄浴春光。
  又
  老樹花分色,枝頭鶯獨啼。狗睡農事急,喫茗客心迷。

五言律詩

   石磴春風冷,行人仰碧空。山桜花未發,何処自天香。
  俗界塵無洗,空聞尚虎狼。幽庭苔色碧,拝廟爲誰忙。

        七言絶句

  桜花落地爲塵埃,緑葉相争砌下苔。遍客和朋先拝佛,清風一路鬱胸開。
  又
  堂前老女浴春光,清昼香烟滞法堂。未識無常先拝佛,不知句意只焚香。

     七言律詩

  山門高聳逼人幽,両袖阿吽何被囚。浮世光陰人易老,時時景物萬端憂。
  黄泉妙法天無語,處處祇林千歳修。諸行無常身後計,香銭合掌那須求。


   比如第一首五言絶句,無論誰讀了都會品味到那種旅遊者的?適心情。「客心」寫自己是旅遊的人,那麼旅遊嗎?什麼好看呢?也只不過「凭欄浴春光」而已。平淡中見真味就是這個意思。另外,「狗睡農事急」一句,也很有味道。農事,寫的是甚麼事呢?沒有説,狗在懶散地睡在屋簷下,是那麼貼近現實生活,逼真的很。

   要説的是,如今很多寫古詩的人已經找不到詩歌與現實社會的關係了,包括我自己在nei,可是古詩在中山逍雀的手裡依然應用自得,jue非文字遊戲,這就足以讓人們三思了。七言絶句的「未識無常先拝佛,不知句意只焚香」寫的也很好,可能是旅遊者的yuan故吧,不管三七二十一,見了佛堂就是拜,哪裡顧得上經文的意思呢?好笑,好親近的存在。

      我曾經去過日本的四國島。我的一個日本老師居住在松山市,我是6‧7年前huang金周後去的。見過所謂的「遍路」人,也見過去哪裡旅遊的人們。所以中山先生寫的那種情景對於我來講,並不陌生。僅兩三首詩歌當然無法鑑賞到中山詩歌的全貌,然而從這幾首詩中,可以領略到中山詩歌樸實無華的一面。寫詩貼近現實,就會有滋有味。這樣的感覺,肯定會得到很多讀者的理解。

   這算是其一吧。中山詩歌的妙味還在後頭。


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投稿2 | ■祝新短詩『曄歌』創刊 王 軍合 2007/1/14(日)12:51 返事 / 削除

祝新短詩『曄歌』創刊

 『曄歌』創刊号が届いた。

 今、隅々まで味わって読むまで行かないところだが、なんと嬉しいことだろう。
 思えば中山逍雀の新短詩(新体詩)に接して以来、どのような形に結晶して行き、より多くの方々に親しまれて行くことを、ひそかに楽しみながらに期待していた。その楽しみが今のような瀟洒な印刷物になって、目の当たりにあるとは・・・

 名は体を現す通り、『曄歌』は日中両国の詩だ。
 このスタイルの新定型詩は、きっと今さまざまな形に絡んだ中日両国の政治的イデオロギーを越えて、両国詩人俳人歌人の心に実ると私は信じている。なぜなら我々の視線の先にあるのは、純朴な詩情あるのみだから。

 まして俳句、川柳、都都逸のような日本詩歌の魅力は、日本人のみならず、近隣の中国人に親しまれるはずだ。この意味で新短詩は、長い詩歌の伝統を受けるものだといえる。

 創刊号第一作品群にある中山氏の曄歌

 水仙香。一半菜園、是故郷。
 初雪庭。籬下黒黒、嫩芽青。

 景あり情あり、まさに珠玉の章といえる。「一半菜園、是故郷」とは並大体の詩句ではない。そう簡単に言える、ただの漢語ではない。小さな農園風景だろうけど、そこには温かい詩人の哀婉がある。

 第二作品群にある陳興氏の瀛歌

 父揮手。児進機場、不回首。異郷深知、親情骨肉。

 空港での送迎、別れ際。ありがちな風景だが、故郷を離れて異国へ旅立つ若者の姿、くっきり目に刻む。「不回首」というのは、よく目にする中国古体詩の字句だが、留学生の私には、なぜかやはり一抹の寂しさが読み取れてしまう。

 高橋香雪氏の偲歌
 
 紅白軽煙、懸鈴二月、噴泉跳舞、両三聯。
 
 とても愉快な気分。どこだろうか、その風景は?やはり、その噴水のしぶきが踊る楽しい様子を遠く眺めて、若い時の自分を重ねたのだろう。

 いずれ篤い詩心を持ち合わせていなければ、到底こなせないわざだ。
 
 数多くの秀作があったが、取り上げる余裕がない。要するに、かような秀句を誕生した以上、人々はかつて忘れたかのような詩情を、新短詩に託すのだろう。

 心から『曄歌』創刊をお祝いしたい。

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投稿1 | ■逍雀詩評 王 軍合 2007/1/14(日)12:49 返事 / 削除

逍雀詩評:周游四国八十八霊地(訳文)

 昔から師友(詩友)の作品は評論しやすい一面もあろうが、その逆、なかなか評論しづらい一面もある。「屋烏の愛」ということわざがある通り、その人となりが好きになれば、その人の詩作も勿論上出来と判定しがちである。他人のことを褒めるのも実にいい気分になれるし、とにかくそういう風に流しやすい。

 だが評論しにくい所は?いい作品ならともかく、そうでない作品は素直に悪いといえるのは難しい。ましてや評論する立場の人間には果たして、どれだけの批評能力が持ち合わせているのか?とにかく私が逍雀漢詩に手を出さなかったのは、その人が好きな上に、私には評論する資質も能力もない、という二点に尽きる。それでも猶、今私が迷いながらも、中山漢詩を語りだしたのは、十数年の人情にのみ縁らず、中日詩歌文学の研究を携える人間の責務にほかならない。

 中山とその漢詩は日本よりも中国で名高い。歴史的事情も関わって、日本のアカデミズムは現実の詩人よりも古い紙くずに耳を傾け、その鼓動を聞くのが学問の王道であるらしい。あまりに中山漢詩に関心を寄せていないのは現実のようである。幸い中国の詩人達は別の目で見てくれている。

 今日は逍雀の古体詩を見てみよう。
 五言絶句
  老樹花空落,優游日正長。偸閑何事好,凭欄浴春光
  又
  老樹花分色,枝頭鶯獨啼。狗睡農事急,喫茗客心迷。

        七言絶句

  桜花落地爲塵埃,緑葉相争砌下苔。遍客和朋先拝佛,清風一路鬱胸開。
  又
  堂前老女浴春光,清昼香烟滞法堂。未識無常先拝佛,不知句意只焚香。
 例えば第一首の五言絶句、誰が読んでも旅人の閑散なる心情を読み取れるのであろう。それほど思い悩むことなく、詩の結句までスムーズに読めば味が出る。詩眼は「客心」にある。どこにでもありがちな国内旅行ではないか、ナニに新鮮味があって、一々首を突っ込んでみる必要はあろう。ただただ「凭欄浴春光」(欄に欹てて春の光に浴びているだけだよ、と。なんと平淡のことか。だが平淡に新味あり。「狗睡農事急」の一句はさらにその平淡なる情緒を補ってくる。

 農事にせこせこ急ぐ人間の姿に比べ、犬が何気なくそこらへに昼寝しているだけじゃないか。卑近の俗事に過ぎないが、なんとなくノホンホン・・・思わずに破顔一笑したくなる。

 古体詩を書く場合、中国人でさえ、今に暮らす現実生活に乖離している現状である。現実生活と、いかにも溶け合う中山漢詩は羨ましい。美辞麗句の羅列を「詩」と誤認せず、生きる実感を読み手に与える所に中山漢詩の最も換え難い魅力であると、私は思う。

 七言絶句の第二首、「未識無常先拝佛,不知句意只焚香」も面白い。ここに至れば、前半五言絶句の平淡さもさらに加味する。というのは旅人の四国旅行ではないか。誰が一体そんなに暇あって、お寺に柱や石碑に書かれた仏教経文に留意するか。句意はどうでもよくお香を焚けば事足りる、極普通の人間心理ではなかろうか。

 面白さから親しみやすさも中山漢詩のあったかい所である。

 以上、わずか二首しか取り上げなかったが、気取らずに読んでいけば、一様に人間感情の襞を見せてくれるのが、日本人の逍雀漢詩の良さだ。

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