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話題8 | ■漢詩詞研究討論 中山逍雀 2007/1/13(土)21:40返事 / 削除

 この度某氏の投稿により、漢詩詞に拘わる様々な問題が浮かび上がりました。この中から幾つかの要点を拾い出し、俎上に載せてみました。討議がしやすいように議題毎にページを分けましたので、是非ご高説をお寄せ下さい。
1−発議
2−定型詩について
3−中国語とは
4−韵と平仄
5−作品の巧拙
6−文字と発音
7−踏襲と挑戦

http://www.741.jp

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投稿5 | ■三多 中山逍雀 2007/1/13(土)21:49返事 / 削除

石倉鮟鱇先生の玉稿拝見しました。
 尤もな話と敬服しました。
 小生が太刀掛呂山先生から時折言われた事をご披露しましょう。
 三多とは世間一般には、多読多作多推敲を指すが、其れはこういう事だと、
 多読は、詩詞の本や文学書を沢山読む事を指している様だが、其れは初めの中で、文字が並べられるようになったら、後は内容の充実が課題となる。其れは本人の人格の問題で、あらゆる事の見聞を広める事が大切だ。簡単に出来る方法としては、あらゆるジャンルの書籍を読む事だ。機会ある毎に顔を出し、手を出し、口を出す。之が詩作に最も重要な事だ。
 多作とは沢山作る事を言うが、それには自分の意図する事を書こうとする爲の、心持ちと文字面を連携させる事を習作の目標とすべきだ。
 多推敲とは、他人に筆を入れて貰う事を指す様だが、これは、見方を換えれば他人なら見える、と言う事だ。其れを自分でも見えるに、しなければならない。文字が並べられるようになったら、他人の作品に筆を入れる事をする事だ。そうする事によって、何れは自分の作品にも筆が入れられるようになる。

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投稿4 | ■不可vs三多 石倉鮟鱇 2007/1/13(土)21:47返事 / 削除

三不可vs三多
 岸本先生からひとついい言葉を学びました。「三不可(詩人玉屑:詩は強いて作らず。徒に作らず。苟も作らず、強いて作れば意なく徒に作れば益なく苟も作つくれば功無し)」。詩の粗製濫造を戒めた言葉だと思います。
 小生作詩歴は6年未満、作詩数は2000に満ちていませんが、詞や新短詩を含めれば7000を超えました。特に昨年は、2700首の詩詞・新短詩を書きました。小生の場合、詩よりも詞の方が多く、字数ではおよそ14万字くらいは書いたのではないかと思います。つまり、絶句に換算すれば、5000首に相当する平仄・韻あわせをやったことになります。粗製濫造といってもよいかも知れません。とすれば、詩人玉屑の「三不可」は、小生に向けられた戒めの言葉として肝に銘じなければなりません。
 しかし、
1.「強いて作れば意なく」、この言葉があたっているかどうかは小生にはわかりません。
2.「徒に作れば益なく」、これはあきらかに玉屑の言葉に誤りがあります。小生にとって粗製濫造は益がありました。平仄と韻を昨年よりもずっと自由に使いこなせるようになりました。
3.「苟も作れば功無し」。小生は詩詞に功を求めるつもりはありません。

 小生の好きな言葉は「三多」です。「多看、多做、多商量」。つまり沢山読み、沢山作り、沢山思う、です。沢山読む、これは得意な人もいれば苦手な人もいる、また、沢山思うは、ボケっと夢想すれば誰でもできることでもあり大したことではないかも知れない。しかし、詩詞の平仄・韻あわせはけっこう重労働です。そこで、「三多」を人に勧めることはしませんが、小生のめざすところは、「三多」にあります。どんなに高邁なことを考えていても、うまく平仄・韻をあわせることができなければ、詩詞を書けないし、詩詞を軽快に書く喜びは生まれてこない。

 思うに「三不可」は自らの天才・秀才を信じる人の好きな言葉ではないでしょうか。詩詞を書くにあたって、適切な時に適切な数の詩詞を適切な言葉・詩型を見繕って書く。つまり、粗製濫造を避ける戒めである「三不可」は、「三適」といってもよいのかも知れません。そして、その「三適」がわかれば誰も苦労しないが、それがわかるのが天才・秀才。
 しかし、小生は凡才です。その「三適」はわたしの頭のなかではそれなりにあるのかも知れませんがほんとうに「三適」であるのかどうか、確信はいつも持てません。だから、「三適」よりも「三多」の方がよくわかります。

 また、いまの時代、「三不可」と「三多」とどちらが警句として意味があるかというようなことも思います。昔はいざ知らず現代では、粗製濫造の詩人は滅多にいません。多くの詩人が「三不可」を心がけつつ書いていると思います。年に2700首ぐらいでえらそうなことをいうな西鶴に怒られるかも知れませんが、年に1000首の詩詞を書く人がいまの世、どれだけいるのか。とすれば、警句としては、「三不可」よりも「三多」の方がより考えるヒントになるのではないか。

 そして、忘れてはならないことがひとつあります。「三不可」を心がければいい詩詞が書けるかといえばそうとは限りません。また、「三多」を心がければいい詩詞が書けるかといえば、これも疑わしい。いい詩詞が書けるかどうかは、おそらくはそういう観念的な議論にあるのではなく、その人の人生経験とか才能とかの実体のある偶然によるのであって、先人の気の利いた言葉によるものではありません。と小生は思うのですが、いかがなものか。

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投稿3 | ■玉稿拝見・・・追伸 中山逍雀 2007/1/13(土)21:46返事 / 削除

 中華詩詞学会は全世界を網羅し、漢民族のみ成らず、国内の五十余の民族、並びに海外架橋まで、総ての詩詞壇を傘下に収めております。
 詩詞壇は個々に同好誌を発行しています。日本の詩壇では、会員外の人は投稿出来ませんが、中国の詩壇は誰にでも門戸を開いています。ですから、その気さえ有れば何処の詩壇にでも投稿出来ます。
 中国には掲載料を支払うと言う習慣があり、掲載料を取るという習慣がありません。ですから、会員外から投稿され、その作品を掲載した場合は、原稿料の代わりに詩誌一冊を送ってきます。中国から日本への郵便料金は、一般物価から比べても相当に高く、日本の生活水準に照らして、数千円から数万円に相当します。
 これを見ても、中国社会の度量の大きさが想われます。こんなに費用がかかっても何も請求をしないのです。申し訳ないと手紙を出すと、生活は楽ではないが、金銭の授受は不要ですと断る人も居ます。其れを只貰いっぱなしにするか、それとも相応の礼をするかは、ご本人のお人柄に依ります。
 前の稿で書きましたが、詩作品は、一般の様式には断り書きがありませんが、余技の部類である「擬古」「集句」「鶴頭」等の作品には断り書きが入っています。そして、その数は余り多くはありません。

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投稿2 | ■玉稿拝見 中山逍雀 2007/1/13(土)21:45返事 / 削除

我々は漢詩を・・・・玉稿拝見
玉稿拝見しました。
 今度の稿を見るまでは先生の言わんとしている事が全く解りませんでした。「我々は漢詩を中国の古典詩ととらえ・・・・」の文言を見て気が付きました。かつて広島県に有った太刀掛呂山主宰の山陽吟社の社規に「古典漢詩の創作・・・・」の文言がありました。これだな!と気付いたのです。
 古典漢詩を創る行為は、例えば、平安時代の詩法・語彙用語で短歌を作る行為とほぼ同じ様な事です。詠う対象が現在でも過去の事象でも其れほどの相異はありません。
 短歌の場合、恐らくこの作品は「擬古」で有るとの但し書きを書く事でしょう。これと同じ事が先生の言う古典詩にも当て嵌まるのです。ですから「擬古」と但し書きを付ければ、小生も擬古の作品として対応し、その様に解釈し、国際的にも擬古の作品として通用します。但し書きがなければ、誰にも理解出来ず戸惑う事と成り、選考の対象には入りません。擬古詩は、回文・集句・鶴頭などと同じジャンルに入り、詩作の余技の部類に属します。
 今田菟庵先生は「詩」と言っています・・・。日本人が言う「漢詩」いうと名称は、日本語なのです。中国では「詩」なのです。「日本俳句」と言わない事と理屈は同じです。
 先生が、擬古詩を漢詩の本流と勘違い為されるには、それなりの理由があります。それは、日本国内の漢詩創作テキストの殆どが、擬古創作用のテキストで有る事に起因します。
 大昔のテキストを底本にして、新たにテキストを編纂したとしても、基本的な考え方は変わっていないのですから、出来あがったテキストは、大昔のテキストの現代版に過ぎません。
 テキストをお買いになる時、どのテキストが底本なのか、屋上屋を重ねる類も多いので、注意して確かめる必要があります。
 二三十年前までは、簡単には作品の遣り取りが出来ませんでした。ですから本家本元の中華詩詞壇に通用するかしないかに気づく事も有りませんでした。然し今日では、電話代より安く、国内郵便より安い郵便料金で自由に遣り取りが出来るようになりました。ですから、日本国内でしか通用しない物事が、如実に外界に晒される事となります。
 古い瓶には、歴史という酵母が住み着いています。その瓶で新しい材料と新しい手法を使って酒を造るなら、きっと素晴らしい新酒が出来る事と想います。

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投稿1 | ■我々は漢詩を中国の古典詩ととらえ 岸本二三男 2007/1/13(土)21:43返事 / 削除


我々は漢詩を中国の古典詩ととらえ、先生は純文学ととらえている

●、只漢字を並べただけでもどれかの定型に当て嵌まると言う現実があります。、中国人ならば小学生だって漢字文の読み書きは通常の事で、連絡帳だって漢字ばかりで書くのです

第2講 「漢詩」という語は明治までは無かった。

 第一講の最初に「漢字で詩を作っている」と書きました。私は「漢詩を作る」ということに少々抵抗があるのです。なぜかというと「漢詩」という言葉の概念がハッキリしないからです。
○ 今田 莵庵先生が説くところが妥当かもしれません
 我々は漢詩を中国の古典詩ととらえ、先生は純文学ととらえている、其の違いだとおもいます。
 我々は詩はもと音楽に合わしたものであるから、小学生でも用いるような、単に意を達するに用立つ普通の文とは違ったものと考えています。措辞は風雅に堪えるものしか用いません(生硬な措辞をきらいます。)其のためか内容も工夫をしなければ、読者には詩人の奥底にある詩意を達することはできません。直置をきらい。比興蘊藉を重んじます。時事や風俗等を叙述する場合でも、俗字・俗語・俚語を嫌うため、一層の工夫が必要になると考えます。俗っぽい、浅易鄙陋な詩をみると不快や嫌悪になります。最近はそういった詩を多く見るようになりましたが、一概にはみっともない詩として片付けることはできないかもしれません。
 だからといって、何でもかんでも詩になるといって、書きなぐるようにして詩をつくるのは感心しません。詩人玉屑には三不可といって、詩は強いて作らず。徒に作らず。苟も作らず、強いて作れば意なく徒に作れば益なく苟も作つくれば功無しと戒めています
ただ、そう云った人はおおむね習作期の人が多いようなので、措辞の勉強には好いかもしれませんが
 私も作詩に25年余を費やしてきましたので、一朝一夕には理解する事は出来ませんので悪しからずご了承ください。

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