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16-4/3 《逍雀詩講》莵庵録

轆轤体(ロクロタイ)

 三月例会では「轆轤体」が採り上げられた。五言律詩または七言律詩を五首並べた連作で、ルールは冒頭の主題句が、首聯上句、首聯下句、頷聯、頸聯、結聯と、脚韻五箇所にずれて使われる。
 そういえばこの形式は以前、中国の詩誌で見たことがある。解説を受けてその構造が理解できた。五言で形状を示すと次の通りである。

☆○★●◎。★●●○◎。★●○○●,☆○★●◎。
☆○○●●,★●●○◎。★●○○●,☆○★●◎。

★●●○◎。☆○★●◎。☆○○●●,★●●○◎。
★●○○●,☆○★●◎。☆○○●●,★●●○◎。

☆○★●◎,★●●○◎。★●○○●,☆○★●◎
☆○○●●,★●●○◎。★●○○●,☆○★●◎。

★●●○◎,☆○★●◎。☆○○●●,★●●○◎。
★●○○●,☆○★●◎。☆○○●●,★●●○◎。

☆○★●◎,★●●○◎。★●○○●,☆○★●◎。
☆○○●●,★●●○◎。★●○○●,☆○★●◎

 ××××で示された部分が、主題句で、脚韻をとる句にずれて用いられ、冒頭へつながるから轆轤体といわれる。『梨雲』35号には、中山先生の『春日閑窗』(五言)と、講義を聴いて急遽作った拙作『北国陽春』(七言)が載っているので参考にされたい。

 注意事項は次の様なものであった。
1.主題句を無造作に順送りすれるだけでなく内容も順送りされなければならない。
2.平仄配列の都合で、平起こし、仄起こしが交互に使われる。
3.第五首には、最初に立ち戻れる体勢が求められる。それには第四首を結論として、第五首は第四首の承句、即ち第一首への予備段階とする。

 一言加えると、轆轤体の面白さには主題が繰り返して使われ、それが連作の進行に随って新たな詩興を生んで行くところにあるようだ。丁度ソナタやシンフォニーの主題が、展開部を経て再現され、新たな情趣を醸し出すのと似た効果がある。それを成功させるには、主題はスッキリした単純なものがいいようだ。モーツアルトの主題のような単純さを用いると成功すると思う。拙作の「北国陽春花満天」なんて、まるで北島三郎みたいだけれど、これくらい単純な方が後々の対句作りを練り上げるのに便利。兎に角面白く、作詩訓練にも役立つので、ぜひ試してみてください。


16-4/3

    陳興さんの詩を回って 今田 述

 留学生の陳興さんは詩友を得たくてインターネットで葛飾吟社を探し当てた。そして彼が始めて葛飾吟社の五香本社に現れたのは昨年十二月二十七日だった。開口一番中山主宰が陳さんにいった。言葉は、「若いのに詩なんて詠んでいては駄目だよ。早く一人前になって稼がなくちゃ。」の一言だった。

 「折角詩会を見つけて来たのに、それではあまり可愛そうでしょう」と、早々に例会を打ち上げて、中山主宰、小畑旭翠先生、秋山北魚先生それに私と四人で陳さんを囲み、近くの焼き肉屋で歓迎の祝杯を挙げた。
 翌朝、早速陳興さんからメールが入ってきた。

  十二月二十七日 十二月二十七日微雪
  訪葛飾吟社 葛飾吟社を訪う    陳興
 高談竹林里、 高談す 竹林の里、
 倒酒挙還傾。 酒を倒して 挙げて還(また)傾く。
 不管鉄道上、 鉄道に上りてからも、
 電車来往頻。 電車 来往頻りなり。

  「不管」は通常「・・・にも関わらず」の意だが、吟社での楽しかった詩談と乾杯の昂奮が、電車に乗ってからも、電車の頻繁な往来のたびに思い返されたのだろうか。きっと好い酔い心地だったのだろう。

 『梨雲』一月号にはこの作品のほかに十首の詩が掲載された。読者は若い詩人の目を感じ楽しんで頂いたことと思う。

  東京手機 東京の手機 陳興
 誰借手機消寂寞、 誰か手機を借りて寂寞を消さんか、
 天如有信月円時。 天に信有る如く 月円き時。
 電車男女皆沈黙、 電車の男女 皆沈黙、
 早有手機傳別思。 早や手機は別の思いを伝える有り。

 「手機」とは携帯電話のことであろう。私はこの詩が好きだ。東京という無機質な外国の大都会における寂寞を、携帯電話をかけて忘れようとする若者の心理。そして携帯に送られてくる情報の頼りなさみたいなものが「天に信有る如く」という句で実によく表現されていると思う。この信は「便り」のことである。

 私自身は携帯は使わないが、古来の封書や葉書に比べて、電子メールは便利であり即時性があるものの、しっかり相手の心情を捉えたどうか解らないもどかしさがあるのだろう。だから皆不安にかられ沈黙のまま送受信を繰り返す。最後の「別思」は「別の」と読むべきか、むしろ「別れの」と読むべきだろうか。

 陳さんは『梨雲』二月号にも三月号にも引き続いて投稿して呉れた。そして三月には新宿最後の東京例会にも出席して自己紹介して呉れた。陳さんの参加は『梨雲』にとってよい刺激になる筈だ。

 それはその作詩法を見れば一目瞭然である。現代韻使用は勿論だが、普通日本の詩壇が喧しくいう絶句や律詩における同字二重使用禁止なんて全く無頓着である。

  千葉憶雨   千葉の雨に憶う 陳興
 雨里憶懐久不開、 雨里 憶懐は久しく開かざれど、
 可能因雨悶詩懐。 雨に因り 詩懐に悶えること能う可し。
 雨平猶作雨時憶、 雨は平らぎて猶 雨時の憶いを作れば、
 萬午奔従天上来。 万馬奔して 天上より来たる。

 同字重用は、短詩型ではそれが詩の膨らみに害があるから生まれた意見であろう。しかしそれが膨らみに効果があるなら、どんどんやって構わないことを知るべきだ。

 陳興さんは望郷の詩をよく詠む。三年も故国を離れているのは辛いことだ。詩作はその淋しさを埋める手段でもあるらしい。だが陳さんは詩に単なる慰めだけでなく、もっと大切な役割があると思っているらしいフシがある。

  修理地球者    地球を修理する者 陳興
 同入高中二百人、 同(とも)に入りし高中 二百人、
 至今多進大専門。 今に至り多くは進む 大専門。
 我成修理地球者、 我は地球を修理する者と成り、
 閑写詩詞郵出村。 閑に詩詞を写して 村に郵出す。

 郵you は郵便するという現代語で漢和辞典を引いても出てこない。漢詩も現代の詩だということがよく解る。 

 布谷  かっこう     陳興
 朝来諦布谷, 朝来りて諦(つまびら)かにする郭公,
 戸外春到処。 戸外は 春 到る処と。
 昨夜欲深眠, 昨夜 深く眠らんと欲っし,
 夢郷似未入。 夢郷 似て未だ入らず。

 新しい言葉は使わなくても感覚は新しい。石川啄木風の詩もある。「諦」の字はつまびらかにするの意味であって日本語の諦めるという意味は無い。陳さんからは学ぶところが多い。陳さんは更に学生詩人も連れて来るといっている。葛飾吟社会員は若返って交流し、大いに学びたいものである。

 



新短詩創設の意義  千葉県  今田菟庵
文化交流と新短詩の意義   1999年3月21日記載
1)日本詩歌の誕生と中国古典詩の影響
 古代の日本には文字がありませんでした。口伝えの記紀や詩歌があり、中国から文字が輸入されると、漢字・漢文でこれらが記録されるようになりました。日本最古の詩集と云われる《万葉集》が、いわゆる万葉仮名と呼ばれる漢字の当字で書かれたのは良く知られています。実際は《万葉集》は最古の詩集ではなく、それより二十年ほど前に《懐風藻》という漢詩集が作られ、これが現在残された最古の詩集です。以来漢詩は和歌とともに日本文学の、ことに貴族文学の根底にあり続けました。

2)近世庶民文化の発達と芭蕉の俳諧
 江戸時代になると庶民文化が大きく発展しました。詩歌の世界でも漢詩が貴族社会だけでなく庶民の間でも流行して行きました。また貴族社会の和歌に対して町人社会で俳諧が発展しました。当初俳諧は遊戯的な性格のものでしたが、松尾芭蕉によって高度な文学として完成されました。そのとき中国の古典詩即ち漢詩を芸術的規範としました。最近中国で日本の短詩文学への興味が高まり、「漢俳」など短詩流行の兆しを見せているのは、言わば芭蕉の学んだ中国詩歌の里帰り現象と云えるかも知れません。

3)詩が漢詩になった明治時代
 日本に漢詩人が最も多く輩出した時代は明治時代です。当時は政治家、財界人、軍人、教育家、作家らの多くが漢詩を詠み、中国語が話せなくても詩を通じて中国人と交誼を保ちました。しかし一面明治時代は西欧文明追随の余り、東洋文化軽視・排斥の傾向も生みました。詩の世界でも蒲原有明や島崎藤村らが「新体詩」運動を起こし、それを「詩」と呼ぶようになり、従来の「詩」を漢詩と呼んで分類してしまったのです。それでも漱石ゃ鴎外に代表される明治時代の文学には漢詩・漢文の素養がバック・ボーンにありました。また一流新聞には漢詩欄がありました。しかし大正6年ごろ全ての新聞から漢詩欄が消えてしまいました。もう漢詩を作れる人が居なくなってしまったからでしょう。それは丁度中国に対し侵略的対応が開始されるのと時期を同じくしています。歴史はいみじくも文化交流喪失の恐ろしい結末を教えてくれます。

4)現在の日本短詩界と中国詩壇
 現在の日本は数の上だけで云えば空前の古典短詩ブーム時代を迎えました。短歌や俳句の専門結社の数は千を越え、歌人俳人の数は千万単位と云われますが正確には数えることすら不可能です。商業新聞から生命保険のPR誌に至るまで短歌、俳句欄があります。街角の本屋の店先に俳句歳時記が何種類も売られる時代を曾て誰が予想したでしょうか。殊に俳句界の人は80年代頃から頻繁に中国を訪れました。それは芭焦が中国古典詩に学んだことにも一因がありましょう。そもそも「歳時記」なる季語集自体、曾て中国江北・江南にあった農業歴「荊楚歳時記」をモデルにしています。鞦韆(ブランコ)が春の季語などというのは全て中国の習慣から由来しているのです。ところで今日の俳人たちは中国へ行って、中国詩壇の日本短詩への憧憬に答え得ているでしょうか?残念ながらそこには本当の交誼、すなわち短詩の交歓は成立していません。詩型の共有がないからです。

5)詩型の共有への模索
 曾て日本人は中国人と古典詩を通じて詩型を共有していました。現代の私たちは再び詩型を共有することはできないでしょうか。確かに今日でも僅かながら古典詩を詠める人は居ます。実は七言絶句や五言律詩を詠むことはそれほど難しいことではありません。やってみると高級ジクソウパズルみたいな面白さがあります。最近漢字クロスワードパズルが流行っていますから、一寸したキッカケでブームを迎えてもおかしくない気もします。しかしそうは云っても大正以降、ことに戦後行なって来た漢字制限・漢文軽視の結果、東洋文化への理解力は民族的レベルで低下したことを否定できません。この現実を踏まえて、なお現代中国詩壇の日本短詩文学への傾斜に対応する術はないでしょうか?もしそれが出来たら日中両国国民は詩を通じて個人的レベルでの国際親善が果たせることになる。こうして工夫されたのが「中山新短詩」です。

6)「中山新短詩」とは?
 このような現実を見据えて、現代の日中両国の詩人が比較的容易な方法で共有できる詩型を考案したのが「中山新短詩」です。中山栄造(逍雀)は長年にわたる中国詩壇との交流を通じて可能性の高い詩型を提案しました。それは次の漢字組合せによるものです。
A.3・4・3 (曄歌・坤歌)(ヨウカ.コンカ)
B.3・4・3・4・4  (瀛歌)(エイカ)
C.4・4・4・3 (偲歌)(サイカ)
嘩歌は俳句に、坤歌は川柳に、瀛歌は短歌に、偲歌は都々逸にそれぞれ相当します。
 この提案は日本の短詩に関心を高めて来た中国詩壇を強く刺激し、ついに1997年9月、現代詩壇の第一人者林林氏(中日友好協会副会長、中華詩詞学会副会長)並びに林岫女士(中国古典文学の第一人)ほか諸氏の提案により一流詩人を一堂に集め、日本から中山栄造の結社「葛飾吟社」を迎えて北京で研討会を開催し、正式詩型として公認することとなったのです。今では中国全土の数百人を越える詩人から作品が葛飾吟社に寄せられています。

7)一例に見る短歌・俳句との関係
「新短詩」とは現実にどんなものでしょうか?また日本の短歌や俳句とどう似ているのでしょうか。一例を挙げてみましょう。最初は現代第一線の中国女流詩人林岫(リンシュウ)の瀛歌です。
 興悠悠。四野金秋。舒遠目,少年有志,更上層楼。
これを日本の短歌に直してみましょう。
 興悠か 四方の錦秋 まなこ馳せ 少年更に 階上めざす
殆どそのまま短歌として観賞可能です。次に日本人の曄歌の作品例を見ましょう。
  大雁塔 東西南北 秋風下
これは1997年の新短詩研討会に参加した坂口明子さんの西安での作ですが、翻訳の必要すらなく、そのまま俳句でもあります。

8)第2回北京新短詩交歓会
 1999年秋、中華詩詞学会は第2回の新短詩交歓会を北京で催すことを葛飾吟社に提唱して来ています。葛飾吟社ではこれを応諾し準備を開始しようと思っています。新短詩にご関心をお持ちで参加を希望される方は、お便りをお寄せ下さい。

9) 庶民による国際交流
   今、世界の多くの國に「俳句」を愛し創作する庶民が増えている。アメリカ、カナダ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリーなどの國に「俳句協会」が作られ、全国大会が持たれ始めている。日本の中でも東京目黒の須川洋子さんが主宰する『季刊芙蓉』という結社が、英語俳句を採用しドゥグール・リンゼイ氏がこれを日本語に翻訳している。作品の例を見てみよう。
In the summer heat on the side walk<'s shadowed
tec ant army marches.              Michael Dunn
夏の日の蔭のある側蟻の進軍           ミッシエル・ダン
 全く異なった言語構造の国民も「俳句」を求めようとしている。其れは現代の庶民が、誰でも作れる短詩に自分を投影してみる必要を感じているからだろう。世界の庶民にとって物質的欲望から精神的欲望えと関心が広がってきたことがうかがえる。詩は今や特定の詩人のものではなくなりつつある。このことは中國でも多分同じであろう。多くの「曄詩」等の短詩が葛飾吟社に寄せられるのを見ていると、其の事実を痛感せざるを得ない。
 「国際交流」等というと、まず思い出すのは国家や地方公共団体の行事である。友好姉妹都市関係の締結などと言う行事が流行していて、夫れはそれで結構なことには違いないが、本当の庶民間の「心の交流」はもっと自由な立場で行われていいと思う。京都がパリとニューヨークに姉妹都市契約があるからと云って、京都市民が両都市市民とだけ付き合うと言う事はあり得ない。
 其の点「俳句」に依る最近の交流は、何処の国民とでも出来るわけであり、真に心の交流を分かち合える手段の一つと言えよう。ましてや我が国と中國とは同一表意文字を理解し合える間柄である。勿論双方の言語は異なり、漢字の使い方は同一とは行かないが、それでも欧米の言語に比べたら同じ文字を使う親戚である。これを活用しない手はない。そこで短詩であるが「曄歌」や「瀛歌」を見ていると、未だ試作期間という感じを拭いきれず、日本人も上手くはないが中国人にとってもこんな短い詩は初めてであり、未だ傑作は生まれない。だが夫れは却って良いことなのかも知れない。お互いに開拓し合うことが将来の理想的な詩形共有につながるからである。
 此処で一つ提案がある。こういう民間の交流を行政も是非バックアップして欲しい。「国際交流」の最後の目的は、それを通じて両国が理解し合い、文化を共有することによって民族融和のこころを養い、将来発生するかも知れない二国間の政治外交経済面での摩擦を和らげる効果を上げることにある。だから行政はこういう地道な活動を見逃しては成らないはずである。例えば広報のスペースをこういう短詩の交流に割く器量を見せて欲しいものである。

 

1999年3月21日記載
曄歌秀作観賞   今田菟庵 (現代俳句協会会員)
 
北風吹 林逋嘘暖 孤山梅   羅 玉松(湖南省)
 
 林逋は生涯仕官も結婚もせず鶴と梅を愛し梅妻鶴子と呼ばれた。詩を作るとすぐ捨ててしまうので理由を聞くと「この世に名を得る気がないのに、ましてや後世に名を残すことはない」と云った。捨てた詩稿を拾う人がいて今日一部の詩が残ったという。作者は孤山は暖かいという林逋の梅の詩に惹かれて出掛け、寒い北風に会ったが佳作が残った。
 
 
小斎空 読書人去 遺東風   黄 飛鵬(河南省・中学生)
 
 この詩は書斎が空になったら、東風が残ったという詩。身の回りを素直に詠んだものだものだと思うが、俳句の感覚からいうと、あまり理屈に走らない方がよい。理屈に走ってしまうと感動が弱くなるので注意したい。
 
 
黄梅雨 消魂怕聴 黄昏雨   陳 竹君(上海)
 
 黄梅は中国原産だが日本にも多く春早く淡黄色の花を見せる。花が梅に似ているが木犀科の植物。消魂怕聴とは随分デリケートな詩人だ。たしかに黄梅の時期降る雨は、細かい雨で耳をそばだてなくては聞こえない。始句と結句に雨を重ねたのは効果を狙ったのだろうが、僅か十字の中で二使うほど効果が有るだろうか?
 
 
壟種瓜 荷鋤帰来 月離笆   山  夫(四川省)
 
 壟は畦のことらしい。瓜を植える山村の一日の生業を成し遂げた満足、疲れた肩に鋤を担いで帰ってくるのは夜だ。月が生け垣を離れる。重厚な作品だ。.日本では大正から昭和にかけて活躍した飯田蛇笏がこういう作品を多く詠んだ。江南の農業暦であった荊楚歳時記をもとにして、俳句歳時記が出来たことからも解るが、本来俳句は農業と密接に関わってきた。農業を知らない社会での俳句が軽佻浮薄の印象を与えるのには理由がある。
 
柳糸長 系日無功 枉断腸   王 海晨(江蘇省)
 
 柳は俳句の世界では春の季語である。この歌でも春の日永を持て余している感覚が強い。来る日も来る日も何の功績もない我々年金生活者が等しく味わう悲哀がここにある。枉の字は「まがる」の意だが、作者が少々拗ねている様子と、柳の葉が長々と微風に漂っている風光がよく合っている。よく合っていることを連句や俳句の世界では「付く」という。
 
 
蕩波光 荷花映面 一船香   胡 鋭タ(湖北省)
 
 蕩の字は日本では使わないが、蕩波とはさざ波のことだ。何とも心憎い単語で、さすが漢字の国だと思う。そのさざ波の光の中を船で行く。蓮のはなが顔を輝かし、花の香が船を包むのである。船は多分ボートのような小舟であろう。面に映えた人はどんな美女であろうか。思わず想像をかきたてられる。
 
 
葉底禽 惜花人在 啼一春   胡 迎建(江西省)
 
 花も散り行き、茂りの中に鳥が啼いている。それは茂りの陰に花を惜しんでいる自分のためなのだ。そして又今年の春も過ぎて行く。春を惜しむ気持ちは中国人も日本人も変わらない。芭蕉の句に「行春を近江の人とおしみけり」がある。近江(現在の滋賀県)には日本最大の湖、琵琶湖がある。行春と人の接点を詠んだ名句だ。
 
 
弔“霊均” 龍舟競渡 喚詩魂   衡  平(四川省)
 
 日本でも中国からの帰化人が多く住む長崎にぺーロンという競渡の行事があって、夏の季語になっている。古く中国では屈原の魂を弔うために五月五日に行なわれたという。霊均とは屈原の字である。四川省でも夏やっているのだろうか。その賑わいが詩人の趣向を盛り上げて行く。いい作品が出来た。
 
 
古樹下 老牛想家 日西傾   丁 一民(湖南省)
 
 大木の下に牛が立っている。太陽が地平線に近付くのを見て、最早草を食べるのもやめている。きっと家に帰りたいと想っているのだ。これは実は作者自身の感情である。それが牛の気持ちとして歌われる。近代日本の短歌人、斎藤茂吉はこれを「実想感入」と云い、昭和の俳人、加藤楸邨は「真実感合」と云った。この歌は季節は不明。「西日傾」とすると俳句では「西日」が夏の季語になる。
 
 
立峰巒 夕陽倒影 松陰乱   王 徳華(四川省)
 
 峰は鋭く尖った山の意。だから夕方になるとその鋭い影が差し込んで来て、松の影が乱れるのを詠んだ。松の陰とは峰の松の影を云っているのか、下の松林のことを云っているのか判然としないが、松林の陰に複雑な光の投影が起きたと採った方がいいと思う。ムーブメント( 動き)が伝わる句だ。四川省の山深い景観を想像させる。
 
 
黄山松 経風歴雨 傲蒼穹    刀 節木(安徽省)
 
 世界文化遺産になった黄山は画にも詩にも沢山取り上げられた来た。天下の絶景を十字詩で詠むのはなかなか骨が折れる。経風歴雨などというのは流石漢詩の国だと思う。俳句もそうだが超短詩で大景を描くには、全部云うのでなく、一部を云って残りは読者に想像させるのがいいと思う。墨絵では随分この技法を使っているのではないか。
 
 
湖辺柳 冷月微敲 半依秋   古 風(吉林省)
 
 繊細な句だ。湖辺の柳の枝が冷たい月をコソコソと敲くという。もう半ば秋になったのだという作者の感情が見事に捉えられている。吉林省は旧満州の北地だから夏も短いのであろう。「半依秋」の結語には秋を楽しむ気持ちより夏を惜しむ気持ちの方が強いように感ぜられる。「微敲」が効果的である。
 
 
風乍起 細雨如糸 惹秋思   頼 尊栄(広東省)
 
 風忽ち起こり、細雨は糸のようだ。秋になったなという季節感が沸く。平凡のようでなかなか実感があるいい作品だ。こういう詩からは想像が拡がって行く。光景の一部しか描写していないからだろう。窓から見たのか外にいるのか、都会か田舎か何も説明がない。説明がないと読者は自分の経験で想像する。俳句では想像を誘う句をいいとする。


月如鈎 誰人美夢 誰人愁   張 雪梅(青森市)
 
 「古詞有“無言独上西楼月如鈎”西楼相哀寂実蓼落之所」と註がある。古詞とは南唐の王李Uの詞。文化爛熟、武力最低の南唐は宋に破れ、李Uは捕虜となり連行される。軟禁された宋都で作ったこの詞は今日なお人口に膾炙し、民族的インテリ歌手テレサ・テンにょって歌われ人気を博した。「無言独上西楼、月如鈎。寂寞梧桐、深院鎖清国。剪不断、理還乱、是離愁。別有一番滋味在心頭。」テレサは五億のファンを持ったが、言葉が解らないのをいいことに、不倫の歌を歌わせていた日本では、ファンが彼女を誤解していた。作者は古詞を思い出しながら、同じ月でも人によって美夢にも愁いにもなると謂う。.故国を離れた作者(ではないだろうか?)にとって美夢だといいのだが。
 
 
君子竹 東坡甘伴 食無肉   楊 鳳生(上海)
 
 君子竹から東坡を連想したのか或いは「題画」であろうか。君子竹があり東坡が良き友として描かれている。この詩は蘇軾の山村五絶其三 老翁七十自腰鎌,慚愧春山筍蕨甜。豈是聞韶解忘味,爾来三月食無塩。の詩から引用している。こういう場合は、蘇軾の詩を下敷きに解釈せねばならない。いずれにしても「肉は食べていない」という連想が現代的で秀逸。報道はこの十年で中国人の肉食量が十四倍になり、上海近郊には数千頭の食肉牛を育て巨万の富を築いた牧畜家がいると伝えている。作者は多少の反省を込めているのだろうか。
 
 
翆渓鴎 倦栖枯葦 看水流   黄 飛(河南省)
 
 美しい翠の渓流の鴎が、枯れ葦に栖むのに倦きて、水流を看ているというのである。何処か引っ越すところはないかと思っているのであろうか。この句も作者の感情を鴎に託していると思っていもいいだろう。「こんないいところに住んで何の不服があるの?」と奥さんから怒られているかも知れない。だが漂泊を求めたいのが詩人の運命なのだ。
 
 
月無声 雪野無声 犬無声   黄 飛(河南省)
 
 これは又大胆な句だ。たった十字の曄歌に「無声」を三回も使った。だから差し引き四字しか残らない。それが「月」と「雪野」と「犬」だ。極端に云えば「月、雪野、犬無声」と六字でいいのかも知れない。だがやはり無声が重なった効果はある。そこには雪野の月、夜の情景が想い浮かぶ。身近な犬を最後に持ってきたところが優れた遠近法となった。
 
 
冬桜花 闘雪報春 燦如霞   羅 雲(雲南省)
 
 この句は日本人には一寸説明を要する。日本では「霞」とは春の水蒸気のモヤモヤを云うからだ。中国語の「霞」にはその意はなく「霞」は「光」とか「輝き」とか云う意味だ。色がついているのが原則である。日本で云う「霞」のことは中国では「煙」という。李白の「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」の冒頭の「煙花三月下楊州」の「煙」がそれである。雪と闘ってきたから冬桜が燦然と輝いて春を迎えているのだ。