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話題6 | ■中山先生の作品をめぐる某氏の文について 石倉鮟鱇 2007/1/13(土)21:36返事 / 削除

 葛飾吟社の鮟鱇です。
 葛飾吟社の中山先生の作品をめぐる某氏の文を拝見した。某氏には名前があります。しかし、わたしは某氏が何を考えているのかわかりません。あれを思っているのかこれを思っているのか、わたしなりに想像する部分はありますが、その想像があたっているのかあたっていないのかつぶさにはわからない。そこで、わたしの想像上のある個人をわたしはあえて某氏と呼びます。
 まずわからない部分の一に、某氏が「緑陰試筆」を単なる感想として書いたのか、詩評として書いたのか、それがわからないということがあります。単なる感想であれば、わたしはあえてこの文を書く必要はありません。しかし、詩評のようにもわたしには読める。しかし、「わたしには」というクレジットをつけなければならないから、この文は、某氏の文をめぐる単なる感想であるとしておきます。つまりわたしがこれから書くことは、議論ではないし、クリティークでもない。単なる感想です。
 某氏の文がもし詩評でありクリティークであるとすれば、あまりに「ひどい」。なぜなら、某氏は、中山先生の「緑陰試筆」をめぐって文を起こしていますが、「この詩にかぎっては、あまりにも内容はひどすぎます。」という文を書いている。前後の文脈から、某氏が書いた「この詩」とは「緑陰試筆」であるらしいことはわたしには想像がつきます。しかし、「緑陰試筆」から説き起こして「緑陰試筆」の詩的内容については全然触れずにいきなり「排律」とは何かについて中山先生に教えを請い、延々とまでもいかないが結構長い文を書いたあげくに、いきなり「この詩」とくる。これでは、一般の読者は「この詩とはどの詩」なのかと思います。一般の読者だけではない、中山先生ご自身が「どの詩」なのかわからない。つまり、詩評でありクリティークであるなら、そういうあいまいでわかりにくい文は書くべきではないはずです。そして、もし某氏の文が単なる感想ではなく詩評でありクリティークであるなら、そのあいまいさゆえに「あまりにひどい」詩評でありクリティークです。
 また、かりに単なる感想であるとしても、事実をどう認識するかという点で「あまりにひどい」。わたしはあえて「ひど過ぎる」とはいいません。「ひどい」。
 なぜなら、「外国の詩を書くを読ませて頂きました」という文がある。この文はまずほとんど日本語ではないのですが、そのことはさしおいて某氏が何を言いたかったのか文意を斟酌します。「書く」「読む」基本的には同じではあります。「書く」ことは「読む」ことであり、「読む」ことは「書く」ことです。しかし、このふたつの動詞を同時に使うときは、きちんと使いわけなければいけません。使いわけるなら、「外国の詩を書くを読ませて頂きました」という文は、
1 「外国人が書いた詩を読ませていただきました」と書くのが日本語です。
2 そうでなければ、「「外国の詩を書く」という中山先生の文を読ませていただきました」と書かなければ日本語として通じません。
 そして、わたしは、「外国の詩を書くを読ませて頂きました」という某氏の文のすぐあとに「緑陰試筆」の詩が引用されていることに注目します。これを見るかぎり某氏は、上記の1のつもりで書いているのだとわたしは想像します。
 しかし、もしかすると「某氏」は、上記2のつもりであったのかも知れません。もしそうだとすれば、これはまた「ひどい」。なぜなら、漢詩は、たとえ日本人が書いたとしても日本の詩ではありません。外国の詩です。上記の1であれ2であれ、漢詩は、われわれ日本人にとって、外国の詩なのです。それをあえて「外国」の詩であるということはないのです。あえて「外国の詩を書く」といういいかたをしなければならない時があるとすれば、それは、「われわれ日本人があえて外国の詩を書く」意味をめぐって論議をしなければならないときです。しかし、某氏の文にはそのかけらもない。思うに某氏は、「われわれ日本人があえて外国の詩を書く」意味については一度も考えたことはないのかも知れません。また、漢詩がもつ国境を越える普遍性についても思いを致していない。
 くりかえしになりますが、某氏の文の真意がなにをめざしているのか、わたしにはわかりません。もしかりにその真意が、中山先生の「緑陰試筆」の詩評をめざしているのだとすればという仮定にたつなら、もしわたしが「詩評(「緑陰試筆」をめぐってではありません、詩評一般)」をするのであれば、「ひどい、ひど過ぎる」という言葉は決して使いません。
 わたしは、他人の作の詩評をするにあたっては、「ひどい」とか「稚拙」であるとかの言葉は使わないほうがよいと思います。他人の作について「ひどい」とか「稚拙」だとかは、詩を書く者ならだれでも思うことです。しかし、わたしはあえてそのことを口にしません。もちろん、詩の作者から感想を求められればわたしなりの意見はいいます。わたしは「あなたのようには書かない」ということはいいます。しかし、「ひどい」とか「稚拙」であるとかは絶対にいいません。
 なぜなら、詩を読む者がその詩を面白いと思うか思わないかは、その詩の作者の責任ではなく、読者の責任であるからです。おおむね読者の主観が勝手に面白いと思いつまらないと思うのです。そして、もし某氏が、「緑陰試筆」を「ひどい」と思っているのなら、それはそれで某氏の責任で理解すればよいことです。ただ、某氏は、ご自身が気付いていないことに気付いてはいない。
 何に気付いていないか。客観的な事実として、中山先生の「緑陰試筆」は、中国本土の定期刊行誌である詩の専門誌に掲載されているということがあります。その専門誌は、毎回120ページほどの規模で刊行され、発売されています。そこに収録されている詩は中国本土に止まりません、台湾あり、アメリカあり、カナダあり、フランスあり、インドあり、シンガポールあり、そして日本もありで全世界の詩友の詩を掲載しています。そして、「緑陰試筆」は、2001年10月の号の裏表紙を飾る詩として、麗々しく掲載されています。編集者が、佳詩であると思ったからそうしたのではないでしょうか。そして、もしそうなら、「緑陰試筆」を「ひど過ぎる」ということは、その編集者の詩をめぐる見識も含めて「ひど過ぎる」といってしまうことにもなります。
 しかし、わたしがここで敢えていいたいのは、「緑陰試筆」が佳詩であるのか「ひど過ぎる」詩であるのかということではありません。「ひどい」と思ったことを胸にとどめず口にせずにはおれないということが問題だということです。他人の詩のどこがすばらしいかはどんどん口にすればよい。もちろん、黙って胸のうちにとどめておくのもよいでしょう、しかし、口にしたければすればよいのです。客観的にみればつまらない詩をよい詩だといい、あるいはよい詩をつまらないと評論すれば、どちらも恥をかきます。詩評あるいはクリティークとはそういうものです。しかし、同じ恥をかくなら、ある人の駄作をすばらしい詩だと稱讚して、あいつはなにもわかっていないとささやかれるほうが、その逆のばあいよりもよほど気持がよい。
 また、もうひとつ気になるのは、某氏は、中山先生が目指す詩の運動を「中途半端」だといっていることです。これは、わたしにはわからない。なぜなら、あらゆる詩の運動で、「中途半端」でないものがどこにあるのか。たとえば、盛唐の詩人たちはどこが「中途半端」でなかったのか。
 わたしたちは、望もうと望むまいと、移り行く「時」のなかで生きています。そして、先人もまた移り行く歴史のなかで生きてきました。中国の古典詩詞の歴史でいえば、盛唐の詩人は、それ以前の詩人にくらべ、中途半端です。なぜなら、彼らは古人の詩に学びながら必ずしも古人の詩作りに忠実ではなかった。だからこそ彼らは、中国古典詩詞のとても豊かな1ページである律詩や絶句を発明したのです。古人の詩に100%忠実であるかどうかという点で彼らは中途半端です。
 また、彼らは、彼らが定着・発展させた平仄をさらに発展させなかったという意味でも中途半端です。彼らは、平仄のさらなる発展形式でもある宋詞・元曲を発見・創造するにはいたっていません。その意味でも中途半端です。
 実作者の立場からは、このような移ろいを考えていかなければなりません。つまり、あらゆる時代のあらゆる完成は中途半端であり、また、中途半端でなければ、その時代時代の完成に到達できないのです。わたしはそう思う。

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