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日本詩歌論攷序文

 日本詩歌は大まかに書き出してみると、俳句・川柳・都々逸・短歌・今様などがある。また、外国詩歌であるにもかかわらず、日本に根を下ろした漢詩詞が有る。

 普段は、これらがお互いに離れた環境の中で語られ活動している。然し、お互いに無関係という訳ではない。相互に、幾ばくかの関わりを持っている。

 この様な話題は、じつはとても興味深い内容が含まれているので、此処に掲載することとした。
諸賢の閲覧を切望する。


夜半の鐘声と蛸壺

  夜半の鐘声と蛸壺            今田 述
伊藤博文・副島種臣・松尾芭蕉の反応

 田舎の蕎麦屋に入っても、「楓橋夜泊」の拓本の掛け軸が床の間に懸けてある。 

  楓橋夜泊 張継
月落烏啼霜満天, 月落ち烏啼いて霜天に満ち、
江楓漁火対愁眠。 江楓漁火 愁眠に対す。
姑蘇城外寒山寺, 姑蘇城外 寒山寺、
夜半鐘声到客船。 夜半の鐘声 客船に到る。

 この張継の詩ほど日本人が好きな軸はない。寒山寺は実際に行ってみるとどうというところではない。蘇州の観光地として日本人に抜群の人気があるのは、この張継の詩のお陰という他はあるまい。この掛け軸は今では蘇州だけでなく、中国のあらゆる観光地で日本人向けに売られている。どうしてこんなことになったのであろうか。

 二〇〇四年秋、葛飾吟社が北京の詩壇と短詩研討会を開催したときのことである。中国仏教協会「法音」編集者の王麗心氏が、こんな発言をしていた。

 「唐代張継の楓橋夜泊は、千秋にわたって人口に膾炙され、また寒山寺はこの詩の伝播によって、仏教の千秋の名刹とされ、焼香のお客が雲のように集まって来ます。毎年の大晦日に、数千の日本の友人と中国人が共同で吉祥の鐘声を聴きます。《姑蘇城外寒山寺》は何とすばらしい広告文句でしょうか、これは恐らく詩の日用的効用と言えるでしょう。」

 大晦日に日本から数千もの観光客が訪れて行列を作って鐘を撞くという。それが事実だとすれば、日本人観光客は《夜半の鐘声》を除夜の鐘と混同しているのかも知れない。張継という詩人は『全唐詩』の中にも、五言絶句七首、七言絶句十一首しか収録されておらず、しかもこの「楓橋夜泊」以外には全く知られていない。

 この楓橋夜泊はすでに宋の詩人欧陽修によって「句は優れているが、夜半というのは鐘を撞く時ではない。」と批判を受け、空想で作られたとされた。日本で人口に膾炙されたのは、『唐詩選』に掲載されていたかららしい。実は『唐詩選』は中国ではそれほど有名ではない。中国人は『三体詩』によって唐詩に接するのが普通である。

 寒山寺は日本人に人気があるが、現在の建物は清朝末期、明治三十年代に建てられたもので、唐代の遺構など何も残っていない。無論唐代の鐘はとうに行方不明である。現在有り難がって撞く鐘には、光緒三十二年(一九〇六年)江蘇巡撫陳?龍が再建したとき鋳造したとの銘があるから丁度百年前のものである。『寒山寺志』によればこれより前、明の嘉靖年間に本寂禅師が鐘楼を建て鐘を鋳造したとある。しかしこの鐘は「倭に遇い、変銷して砲と為す」という詩を遺して行方は解らない。倭寇が持ち去って鋳直して銃砲にしたというのである。真偽の程は解らないが蘇州が倭寇の度重なる襲撃を受けたのは事実である。

 現在楓橋へ行くと、橋に続く城壁の上に「倭寇博物館」がある。倭寇の来襲があると警鐘が鳴らされ市民は全てを抛擲して逃げた。

 その記録が展示されている。
 日本人は往々にしてこのような記録に眼をつぶり勝ちである。さらに中国文化に対して敬意を払う精神も衰退した嫌いがある。だが、明治の元勲伊藤博文にとっては、この話は十分信用するに足るものだった。

 堂の西側にもう一つ「青銅○頭鐘」というのがあるが、これは伊藤博文が寄贈した鐘である。秦泥の著書『漢詩の旅』によれば○頭とはオッパイのことで、鐘の形がそれに似ているからそういうのだそうだ。多少の皮肉も込められているかも知れない。この鐘に鋳込まれた伊藤の序と詩は次の通りである。
註;○;女+乃

  伊藤博文
姑蘇寒山寺、歴劫年久、唐時鐘、空於張継詩中伝耳、嘗聞寺鐘転入我邦、今失所在、山田寒山捜索尽力、而遂不能得焉。乃将新鋳一鐘齎往懸之。

 伊藤博文
 姑蘇寒山寺、歴劫の年久し、唐時の鐘、空しく張継の詩中に伝わる耳、嘗て聞く寺鐘我邦に転入して、 今所在を失う、山田寒山捜索に力を尽くせども、遂に得ること能わず。乃ち将に一鐘を 新たに鋳して齎し往きて之を懸く。

姑蘇非異域          姑蘇は異域に非ず
有路伝鐘声          路有りて 鐘声を伝う
勿説盛衰跡 説う勿れ      盛衰の跡と
法燈滅又明          法灯滅すれど又明くす
明治三十八年四月        明治三十八年四月
大工小林誠義施之        大工小林誠義之を施す

 唐代の鐘の声は張継の詩の中だけに残っている。聞くところでは日本へ転入したが行方が判らない。山田寒山なる人が捜索に尽力したが結局不明だ。そこで新しく鐘を鋳造し持参して懸けたというのである。これを見る限り、日清・日露に勝利した日本の為政者は、なお敗者中国に対して礼を尽くす態度を崩していなかったことが解る。

  最近の為政者のように蘆溝橋の戦争博物館を訪れて署名簿に「忠恕」と書いて中国文化人の顰蹙を買ったのとは可成りの差があるというべきだが、それは取り巻きの差ともいえる。詩を書して相互に志を陳べるのは、漢字文化圏の為政者の常識であった。

 伊藤博文は清国や朝鮮を訪問するときは、常に森槐南を伴っていた。ハルピンで暗殺されたとき槐南も負傷している。

 これより先、明治九年には外務卿副島種臣が寒山寺を訪れている。当時この寺は太平天国乱で完膚無きまでに焼かれ破壊されていた。副島の詩の実力は清国でも評判だったから、ここでどんな詩を詠むか期待されていた。副島はおもむろに筆をとり「月落烏啼霜満天」と書した。何と起句は張継と一字も異ならない。清人たちは思わず失笑した。ところが承句から転回が始まったのである。

  月落烏啼霜満天、  月落ち烏啼いて霜天に満ち、
  江楓夜泊転凄然。  江楓夜泊 転たた凄然。
  兵戈破却寒山寺、  兵戈破却す 寒山寺、
  複無鐘声到客船。  複た鐘声の客船に到る無し。

 並み居る清国人が膝を叩いて感嘆したという。将に練達のパロディーである。

 この「江楓夜泊」が日本人に好かれる理由の一つは、詩趣が極めて解りやすいことにある。だからパロディーにし易い。実は副島よりも遙か昔に「江楓夜泊」をパロディーにして傑作を生んだ詩人がいた。他ならぬ松尾芭蕉である。芭蕉の『笈の小文』の中に次の一句がある。

   明石夜泊
  蛸壺やはかなき夢を夏の月       芭蕉

 『明石夜泊』という題があるところを見れば、これが張継の『楓橋夜泊』に倣ったことは明らかである。「夜半鐘声到客船」という平易な表現を蛸壺に置き換えたところに、芭蕉の卓抜なユーモアとペーソスがある。鄭民欽はこの一句を次のように漢訳している。

   明石夜泊       芭蕉
  章魚在陶罐、      章魚は陶罐に在りて、
  独自濃酔黄梁夢。    独り自ら黄梁の夢に濃酔す。
  夏夜月満天。      夏夜 月は天に満つ。   (鄭民欽訳)

 黄梁夢は「邯鄲の夢」のことである。春秋時代、邯鄲の茶店で小憩した蘆生が、黄梁の煮える間にうとうとと眠りについたが、仕官して栄華の一生を送った夢を見たという故事だ。俳句の訳としては随分多くの漢字を用いているが、中味は芭蕉の句より多くも少なくもない。芭蕉の句意を実に上手く訳しているといえる。鄭民欽は芭蕉の全旅行記を翻訳した他、『日本俳句史』や『日本民族詩歌史』等貴重な大著を著している。俳句に対するこのような真摯な研究があってこそ、漢俳誕生の土壌が作られたのである。

 俳句への関心は欧米でも高い。この芭蕉の名句を英語に訳すとするとどうなるであろうか? 芭蕉の全発句を英訳した尾迫利治氏の訳は次の通りである。

  An octopus pot:
  An ephemeral dream
  Under the summer moon. (尾迫利治訳)

 「何も足さない、何も引かない」という翻訳の精神からいえばこれは正解かも知れない。しかしこの英語を読むことで芭蕉の原意が導き出せるだろうか。「はかなき夢」の一語に芭蕉が託したものは、「たった一晩蛸壺に宿って見た夢」を指すのだろうが、それなら中国人には「黄梁夢」がピタリと来るだろう。この差は結局のところ、表音文字文芸と表意文字文芸の違いともいえる。

 実は鄭民欽が用いた五・七・五の十七字で詠む形式は「漢俳」の形式である。この訳を北京語で読むと次のようになる。

  Zhang-yu zai-tan-guan,
  Du-zi-nong-zui huang-liang-meng.
  Xia-ye yue-man-tian.

 つまり俳句と同じ十七音節なのである。しかも「月落烏啼霜満天・・・・」などという古典詩に較べて、何よりも率直さと親しみ易さを感じさせる。それでいて蛸が蛸壺で黄梁夢に酔うという奇抜な諧謔は、中国現代詩人の詩情をそそらずにはおかない。

 「漢俳」は中国の詩人が俳句を研究して、編み出した新短詩型である。一九八〇年、大野林火率いる俳人訪中団の歓迎宴席上、趙樸初翁によって詠まれて以来、鍾敬文、林林、李芒、林岫らの尽力で普及し始め、四半世紀後の二〇〇五年三月、遂に国家機関として「漢俳学会」が成立した。

 林林が名誉会長に、劉徳有が会長に就任した。この成立大会には私も招待され、有馬朗人、金子兜太、倉橋羊村ら俳人の面々とご一緒に参加させて頂いた。対外友好協会講堂において午前十時から式典があり、ランチオンを挟んだ午後は、俳句・漢俳等の短詩を巡ってシンポジュームが催された。

 中国側から林岫、李小雨二女史が、日本側から倉橋羊村氏と私が基調講演を行った。これまで中国の詩詞文学については「中華詩詞学会」が唯一の国家組織としてあらゆる詩型を統括してきたが、そこから「漢俳学会」を独立させたのは、画期的なことといわねばならない。そこには新しい国民詩として、この小さな詩型への期待が込められているといえる。ここまで来たのは、その背景に俳句の大衆性を研究し続けて来た中国短詩人たちの努力がある。

 ふり返れば文字を持たなかった日本人の祖先が漢字を輸入して以来、中国は常に文芸の先生であり、日本は常に輸入者であった。漢俳は日本文芸が中国に影響した最初のケースである。現在日本の若者の外国語選択は、英語についで中国語という時代を迎えている。そういう若者の中から、漢俳による文化交流を手掛ける人が出てくることであろう。私たち日本人は俳句の母国からこの動きを見守り、両国の文化交流のためにも、物心両面から出来る限りの支援を送って行くべきだと思う。
(二〇〇六・七・一九)

「游星36号より転載」


詩と俳句の叙述法の違いについて
深海鮟鱇

 漢詩と俳句が、詩材あるいは句材を共有しているということがあるにしても、その叙述法には基本的な違いがあることを、わたしたち詩を書く者は認識しておいた方がよいだろう。

 「俳諧の連歌」(以下連歌と略す)における発句は付句と一体となって一篇の詩境を共有する。俳句はその後独立したとはいえ、この発句の機能・叙述法を今も継承していると思われる。そこで、漢詩の立場からは、俳句は、起承だけで転合なき詩であるように思える。

 ここではそれを、俳人星野恒彦氏の次の句で見てみたい。

山門に象の彫刻蝉の殻

 この句が俳句になっているかどうかは、俳句門外漢のわたしにはあまり自信がないが、わたしは、俳句になっていると思う。俳句になっているという根拠を明確に述べることはできないが、そう思う。

 しかし、この俳句を通して読者であるわたしが、何を読んだことになるのかは、よくわからない。

 山門=仏教、そこで、象の彫刻=お釈迦さまを載せて練り歩く象のこと、蝉の殻=蝉蛻=仙蛻で、仙人になること。わたしがそう読んだことはわかる。しかし、そうではないという人がいて、たまたま行った寺の山門に、お釈迦さまを載せた象が彫られていることが眼に止まった、そして、お釈迦さまかと思ったら蝉の殻だった、そういう句だといわれそうな気がする。

 そういわれればわたしもそうかとも思うが、それでは作者はほんとうにそれを詠んだのか、とその人に問えば、そうだ、それを詠んだのだ、と禪問答になるだろう。その人は、自身の読解に自信があり、わたしにはそれがない。

 俳句は、今の時代、連歌の発句として詠まれるということはないのだが、それでも、読者の解釈・想像力という名の付句を要求するような詠み方がされる。つまり、俳句は、作者が何かを伝えるために詠むのではなく、詠まれた句が、それを聴く者の解釈・想像力を触発するものでなければならないかのようだ。

 そこで、詠み手にとっての俳句が何であるかはともかく、聴き手にとっての俳句は、五七五で一個の詩として完成しているものではない。

 聴き手は、解釈・想像力をそれに付加しなければならない。この詠み手の発句性と聴き手の付句性の共同作業があってはじめて、俳句が一個の詩として輝きを放つと思える。

 一方、詩では、そういう共同作業がいささか困難なのである。もちろん作者と読者という関係は詩にもあるのであって、俳句における詠み手の発句性と聴き手の付句性のようなことは詩にもある。

 しかし、程度に大差がある。読者の解釈・想像力に依存する度合い、あるいは詩としての未完成度が違うのであって、解釈・想像力のための材料をポンと投げ出して、あとは諸君に任すというごとき書き方は、詩ではうまくいかない。

 なぜなら、詩は、俳句に較べて長いからである。そこで、俳句とは較べようがないくらいに多くの情報を、言葉に託して読者に提供しなければならない。俳句の五七五が言葉として、聴き手に提供する情報の量は、七言絶句四句でみれば、一句七字程度であるだろう。多くても、曄歌三四三の十字までであるだろう。

 そこで、俳句を十分に踏まえて考案された曄歌はともかく、漢俳にしても五言絶句にしても、俳句が身上とする発句性だけで、作品の全部を塗りつぶすわけにはいかない。たとえば五言絶句でみれば、起句・承句の十字は、発句のように書いてもよいかも知れない。

 しかし、転句・合句の十字は、付句のように書かなければ、詩としての完成を期待できない。そこで、俳人星野氏の句の善良なる聴き手となった漢詩人であるわたしは、山門・象の彫刻・蝉の殻を発句として、付句をわたしなりに考え、次の詩にした。

  人入山門愁緒長,   人 山門に入るも愁緒長く
  木雕靈象掉空王。   木雕の靈象空王を掉(おと)す。
  飛仙已去留蝉蛻,   飛仙 すでに去って蝉蛻を留(とど)め,
  深院喧喧戀欲狂。   深院に喧喧と恋して狂わんと欲す。

 詩のストーリーは、ある人が悟りを開こうと仏門に入ったが、邪念断ちがたく、木彫りの象が空王(お釈迦さま)を落としてしまうかのようだ、ということで始まる。そして、蝉の殻を見つけ、蝉の殻から脱け出た仙人たちが、裏庭で声を張り上げ、老いらくの恋にふけっていることに思いを馳せる。

 そのあとどこで何するかは、わたしの七言絶句では詠んでいない。余韻・余情は、詩にもある。星野氏の作は俳句である。だから、そこに盛り込まれた句材は、聴き手の解釈・想像力の如何によって、いかようにも発展する発句性があるということになrのだろう。しかし、わたしの作は漢詩である。発句は千の解をも含みうるが、付句はひとつの解であらねばならず、かかる作とあいなった。

02


私の漢俳の詠み方、十の手法 (北京) 李増山
荻原魚骨訳

 漢俳は様式が極めて短小なため、深長な詩意と濃厚な詩味を詠おうとすると容易ではありません。私は以前≪漢俳創作略解≫なる拙文を発表し、主題形象、意境、余韻、構想、言葉、内容、感情などの面から、漢俳創作に当たっての"八つの強調点"を提起しました。

 私は今度は漢俳創作に当たって芸術表現の技巧問題に重点を置いてここで簡単に述べたいと思います。私は自らの漢俳創作の実践の中から併せて十種の方法を見つけ出しましたので、詩友の皆さんどうぞご叱責ご叱正のほどお願い申し上げます。

 問題点の説明のために文中に引用いたしました詩は全て愚生の拙作としましましたのは、人様の作品にいたずらに評論を加えることは恐れ多く私には出来かねますので、拙作をもって間に合わせた次第であります。

 

一、単刀直入法。

 遠回しに言わず、主題に直入すること。この方法は感情が激烈な題材、例えば胸中をありのままに述べる言志詩、その非を直訴する譴責詩等の表現に適している。

詩 縁
欲罷不能休,為伊歓楽為伊愁,為伊白了頭。

 好きだと言う事を詠みたいんだったら、思いっきり好きだと言えばよい、煮え切らない態度でもじもじしたり、隠し立てするべきではない。初めて漢俳を詠む時は、ただただ主題がはっ きりと表現できないことを恐れて、多くの場合この手法を取るものである。

 しかしその実、この手法は書くのは簡単であるが作るのは最も難しい。うまく詠まないと詩味が全然無い、単 なる"標語詩"になってしまう。

 

二、含而不露法(内に秘めて表に表さない手法)。

 この手法は感情が激烈ではない題材、例えば穏やかで婉曲的な男と女の間の愛情詩とか或いは風刺詩などの表現に適している。表に表さないとは言うものの、必ず読む人に詩の中に秘められた意図するものを見出させなければならない。

 さもなくば、言わんとしているところが分らず、其の詩は何の役にもたたない。

      □海酔吟
(□海にて酔いて詠む □=シ+耳)
酔里尋春夢,低頭対月理霜鬢,暈泛鏡中鏡。 

 詩の中には主人公の心理活動は直接的には描写されておらず、全ては彼のその酔って真っ赤なった顔 の中に隠されているのである。この手法は把握することからいって比較的難しく、うまく出来ないと晦渋にして難解な"朦朧詩"なってしまう。

 

三、一寸触れるだけでそこで止める手法。 又は見せたいけれどもやはり隠しておく手法。

 これは一つの芸術弁証法です。中国画論には"景は隠すほどに、其の画境は広がり、景は見せるほどに、其の画境は小さくなる"という言い方があります。

  当然のことながら、全てを隠すことはできませんから、隠してあるけれども見えるとか、あからさまには見せないとか、見せる風情をしてやはり隠しておくとか、一寸触るだけでそこで止めておくとかすれば、其の効果たるや「少を持って多を制す」であります。

 この手法は多種多様な題材を詠むのに適しており、また中国人の審美習慣とも符合し、裸体画、抽象画を好まず、古典中国画(国画)を好むのと同じです。

登烽火台有感(烽火台登って詠ず)
台空烽火浄,少年不解千年夢,只作清涼境。

 教育内容が偏りバランスを欠いた現象を風刺したものですが、此処まで言えばそれで充分なのです。余りの多弁は返って味が淡白になります。この手法を掌握するのは、前に述べた二つの手法と較べていくらか容易で、度を越した単刀直入、或いは度を越した晦渋を避けることができます。

 

四、「弓を引き絞ったまままだ放たない」手法。

 これは学問を教える際の啓発、手引きの方法を用いて短詩を詠むもので、紙幅に限度があるため書けなかった問題には直接は答えず、啓発のみ与えて読者に自分で考え自分で答えてもらうと言うものです。これにより、詩の"言尽きて意なお無窮"の芸術的効果を達成することが出来ます。

戦火中的児童(戦火の中の子供たち)
一双驚恐目,望断硝煙弥漫路,伊甸在何処?

 戦火による破壊を何度も受けた子供たち、彼らが憬れの楽園はどこにあるのだろうか?
問うて答えず、余韻は尽きず、味わい深い。

 

五、「竹の管から豹を覗く」手法。

 この手法は短詩を詠むに当たっての最も基本、最も重要な方法あり、 "筆で描くところは一斑にとどめ、全容は心にとどめる"が必須である。一斑を見て全容を知ることが出来るのは、全身に斑模様があるのは豹だけであるということを知っているからである。従って一斑を描けば直ちに豹であるとわかる。

辺防戦士速写・衛生兵
(辺境を守る戦士のスケッチ・衛生兵)
雪裏艱難歩,歩歩脚窩有多深,都到薬箱処

 腰に薬箱が下がっていれば、衛生兵である事は、先ず間違いないだろう。又、この詩全体からみると辺境の衛生兵が他の兵士達に感謝される多くの事象の中のたった一つの場面を描いただけである、従ってこの詩全体を "一斑"とみなすこともできる。

 

六、長所をもって短所を補う手法。

 漢俳のような形式は、短小にしてあまり多くの写景、叙事は出来ないとはいえ、リズムもあり、上がり下がりもあり趣に富み、韵を用いて臨機応変多様に変化し、非常に抒情に適しているので、我々はその抒情の長をもってその写景を補うことができ、叙事の足りないところを情をもって勝ることにより、「言葉は短くても情は深い」を達することが出来る。

 単純な写景詩や抒情詩は無く、全ては情と景が交わり溶け合い、抒情と叙事が交わり溶け合ったものであるから、この手法は普遍的に運用できる。

紅葉酔人
景似杯中味、貪杯不覚日西堕,人共霜林酔。

 筆を存分に使って紅葉の美を描写しなくても、景色をめでる人の陶酔の風情を叙することによって、読者はその中から同じように紅葉の美景を想像することが出来る。

 

七、うまく典故を用いる手法。

 当世の人が詩を詠む場合多くは典故を用いない或いはほとんど用いないと主張しているが、これは正しいことである。なぜなら典故を用いても特にいくつかの滅多に見かけない典故を用いたところで一般の人は見ても分らないというのがほとんどであろう。

 もしも用い方がうまくなければ、用いていることが明らかなだけ、一層"違和感"が醸成される。しかし典故は字面は薄っぺらでもその意味するところは深いので、詩の含意と詩の面白みを増すことができ、一般の人が知っている典故を適宜使うならば、短詩創作の取るべき一つの手法といえる。

観反腐展帰来
(反腐敗現象展示会を見て帰る)
想来寒透骨,夜静有書無興読,臥聴蕭蕭竹。

 鄭板橋の半句詩を用いて、作者が腐敗現象を強く恨む心情と民衆の苦痛関心を寄せる心情を力強く伸び伸びとしかも意を尽くして描き詩を意味深長にしている。

 

八、土俵の外で相撲をとる手法。

 正確には題目の枠を飛び出す手法というべきです。漢俳はたった17文字の詩ですから、作者は往々にして一筆一筆をまるで金でもあるかのように大切にし、どうしても一字一句をみな題目にぴったり合わせようとし、ただただテーマから離れて、文字を浪費することを恐れてばかりいる。

 実は適当にちょっと題目を飛び出した内容を詠むとその詩に風格/気品を持たせたり、諧謔味を備えさせたりして思っても見なかった効果をうることを知るべきです。

 当然、余りに遠くへ飛び出し、題目を離れること万里となってはならず、「看似無情勝有情」(無情のように見える情はあからさまな情よりも強い)でなければならず、言葉は跳んでいっても、心は跳んで行ってはならず、題目と内在的聯系を持っていなければならない。

     読<林岫漢俳詩選>
酒酔貪杯客,山酔松雲江酔月,詩酔芸窓夜。

 この詩はもとより"比興"(他のものに例えて、面白く表現する)の手法を用いているがその上に"土俵の外で相撲をとる"手法も用いている。三句中完全に題目の圏内にあるのは一句のみであるが、正に他の二句が圏外に飛び出した話題で、テーマを際立たせ、作者が愛し、崇拝している林詩の情の表現を一層透徹させ且つ面白みを持たせている。

 

九、一波三折の手法。

 況周頤は次のように言っている。"小令能転折、便有尺幅千里之勢。"(小令は変転することが出来るので、一尺の紙幅ながら気宇千里の広きを表している)。漢俳は小令と同様、容量が小さく、"一つの波"しか詠めないけれども、却って一波三折、起伏奔放の妙を好くすることができる。平淡無奇の漢俳作品ばかりを書く人がいるが何故なのだろうか?それはこの道理がわかっていないからである。

夜思静
    床前名月光,思娘頭上又添霜,念児辺塞涼。"

 この詩の詠み方はかなり曲折している。先ず月から故郷に想いを巡らし、更に霜に似た月光から母の頭の霜に似た白髪に想いを致し、その後に筆峰を一転させ、翻って又母親に想いを巡らすのであるが、この時母親は辺境を守っている子供のことを思案しているのである、一波三折、一咏三嘆、人の心の奥不覚まで感動させる詩である。

 

十、絶句構想の手法。

 漢俳の構成上の平板、無秩序を避けるために、我々は絶句の"起承転合"のパターンで想を練り、"承"の句、或いは"転"の句を落とすことで作る事もできる。実際のところ、起承転合の手法は単に構成、構造上の手法に留まらず詩の中に流れる意図するところと技法を現す手法でもあるのです。

東風咏
床前花影動、是誰暗把清香送?捉来蜂蝶問。

 この漢俳は先ず絶句を作り、後から漢俳に作り変えたものです。元の絶句は次の通りです:"窓前花影動、誰把清香送?推戸向深叢、捉来蜂蝶問"。この手法を挙げたからと言って、漢俳を詠む時はいつも絶対先ず絶句を作り、それから漢俳に作り変えなければならないと言っているわけではけっしてありません。言いたいことは構想する過程でこの意識が必要であると言うことです。

 

03


俳句の母国から漢俳を見る
莵庵山人

 漢俳が生まれて四半世紀、中国人による「俳句」への接近は、新しい現象として両国文化交流史上に特筆されるべきである。漢俳発展の経緯を日本側から見てみると、第一期の勃興期、第二期の学習期を経て、今はいよいよ第三期の普及期に入りつつあるように見える。

 趙樸初翁によって漢俳が詠まれた1980年からの10年間は正に勃興期。この間の主要作家は趙樸初、鍾敬文、林林ら日本の俳句事情を知っていた先覚者たちである。林林先生の次の一文は、このグループを代表するものだろう。

・・・私が俳句に注意し、興味を持つようになったのは、三つの要因がある。其の一は、俳句は日本文学史に重要な位置を占めていること、二は、現代に到ってもなお広い大衆的基盤があること、三は、世界の詩歌にも影響があることである。私は俳句を研究するのは大変むずかしいとは知りながらも、あえてそれを学び、かじってきた。(林林『扶桑雑記』)

 次いで90年代、第二期の俳句学習期が訪れる。この時期には俳句(一部短歌も含まれる)の翻訳が盛んに行われた。俳句を知らない中国人に漢俳を広めるためには、まず俳句を知って貰わなければならない。

  しかし俳句の性質を一般の中国人に解説するのは決して容易ではない。その第一歩は一首でも多くの作品に接触し鑑賞して貰う必要がある。と、こう考えたのは李芒先生であった。李芒訳による『和歌俳句叢書』の発刊がスタートしたのは1991年。その巻頭言に次の一節がある。

・・優れた歌人、俳人がそれぞれ個々に祝賀に来られ,西湖や蘭亭の游吟活動をおこなった。それは空前の盛況で,素晴らしい成果があり、我が国の研究家や翻訳家及び詩歌作家や愛好者の関心を喚起した。

  従って、この叢書シリーズの出版はやはり中日両国の文化交流、中でも歌俳交流の必然的趨勢であり,本シリーズは中日両国詩友の団結と中日両国人民の友誼を強化し,又中国詩人が日本の伝統歌俳に鑑みるうえで非常に大きな役割をなすことを堅く信じるものであります。

 現在は第三期。この普及時代の 幕開けは1997年と見ていいのではないか。この年林岫・鄭民欽による『漢俳首選集』が刊行され、漢俳は中国詩歌史上に居住権を持つに到った。当時のことを劉徳有はこうふり返る。

   ・・・李芒同志の推薦で、林岫同志は私に"原稿募集案内"を送ってきました。"原稿募集案内"には≪漢俳首選集≫はわが国詩歌史上初の漢俳集であり、私に近作中から10首を自選し彼女に送るようにと書いてありました。

 手紙を頂いてから私は聊か躊躇しました。私の手許には十首や二十首の漢俳はありましたがすべてが習作であり、全く人前に出せないものでした。

  しかし、"息子のダメダメ嫁も、いつかは姑に会わなければならない"と私は直ちに勇を鼓し、14首を選び李芒同志経由李岫教授に送り、彼女にこの中から10首選んで欲しいと頼みました。(劉徳有『俳句・Haiku・漢俳』)

 この一文は漢俳が普及時代に入ったことを窺わせる。この1997年には『現代俳句漢俳作品選集』第二巻も刊行されが、特筆すべきは9月「中山栄造新短詩研討会」が開催されたことである。当時漢俳について殆ど何も知らなかった。

 私は、中山主宰の急造訪中団の一員として参加し、林林、李芒、林岫、徐放、溥雪?、紀鵬といった錚々たる諸先生の面々にお会いし驚倒させられた。

 これを期として葛飾吟社では会員が漢俳を詠むようになった。漢俳の外国への普及第一歩である。それまで俳句関係の訪中者が、誰も漢俳を詠もうとしなかったのは何とも不思議だが、葛飾吟社は今でも日本で恐らく唯一の漢俳を含む中国詩詞と取り組んでいる結社である。

 外国の詩を翻訳に頼って理解するのには元来限界がある。上手下手は兎も角、実践してみて始めて真の味が解るといえるのだろう。

 私たちが中国詩詞を制作しつつなかなか乗り越えられない一線があるように、中国詩人が俳句の心を理解するのもなかなか難しいものがあるに違いない。漢俳作家の手法を日本人の目から見ていると、目下のところ次の三つのパターンがあるように見受けられる。

 第一は漢詩の五絶等から不要な句を整理調整して漢俳に仕立てるタイプ。第二は漢俳を長短詩の詞の一種として捉え、短詩としての新構想を拓こうとするタイプ。第三は日本の俳句に接近し、俳味を採り入れた短詩を目指すタイプ。

 いずれも成功の可能性を持つが、漢俳が今までの中国詩詞にない新境地を開拓するためには、第一より第二が、第二より第三が個性を持てるような気がする。これは岡目八目のコメントであって、正しいかどうかは中国詩壇自身が判断することであろう。

 夙に第三のパターンを歩んで来られたのは林林老である。先生が提供された連作『早市写真』は、優れた"俳味"を含んでいる。俳味とは俳諧の味で、漢字の「俳」も「諧」も笑いであるように、庶民的な笑いの要素が含まれる。

 それは文芸としての笑いであって、決して演芸の「お笑い」に堕してはならない。だがここまで来ると、日本の現在の俳句作家でも、十分解っている人は少ない。林林先生に次の一首がある。

  黄黄新水果 黄黄たり 新水果
  其名叫伊麗沙白 其名は エリザベス
  洋味好吃口馬?   洋味 好いですか?(林林)

洋風かエリザベスなる瓜の味

 思わずこんな訳句が浮かんだが、果物の「エリザベス」という名を見て詠まれたモノで、そこには一種の諧謔がある。これは明らかに"俳味"を狙われたものである。この他、『西湖景語』に登場する岳王墳の「油炸檜」@とか、『牡丹』に登場する「則天武后」Aなど、いずれも史実を引いた"俳味"を効かした作品で、蕪村の如き手法が見える。

   易水にねぶか流るる寒かな 蕪村

@ 牡丹       林林
胆識冠群芳 胆識 群芳に冠たり
  因抗女皇貶洛陽 女皇に抗いしに因って洛陽に貶めらる
  國色更増光    國色 更に光を増す

   (注)伝説では武則天が帝を称して后,曾つて冬季に詔して百花に盛んに咲けと命じたが,牡丹だけは従わなかったので,洛陽に落とされたという。

A 岳王墳   林林
 萬民愛岳飛 萬民 岳飛を愛す
 千古奇冤莫須有 千古の奇冤 莫須有(でっちあげ)
 活該油炸檜    "油炸檜"とは活該(あたりまえ)

   (注)□南地方の民間で油条(揚パン)のことを"油炸檜"というが、この檜は"秦檜"のことである。(宋は北方民族金に圧迫され、首都開封を奪われ、杭州に退いて南宋となるが、北方挽回を主張した愛国の英雄岳飛は、和平派の宰相秦檜によって冤罪を着せられ逮捕の上処刑された。西湖の畔に墳墓があり、傍らに立つ秦檜の像は参詣者によって鞭打たれる。)□=門+虫。

 ともあれ日中両国の俳句と詩詞の競作は、中国人は詩を詠み、日本人は俳句を詠むという第一段階から、相手のジャンルへ踏み込んだ第二段階へ入って来たのである。(終)

 

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